自分の「時間」は公共財である

今目の前にある「時間」をどう使うのか?
これはそのまま、どのように「生きる」のか?という問いに置き換えることができます。
 
なぜならば、「命」=「生まれてから死ぬまでの時間」だからです。
 
「時間」への対峙の仕方をしっかりと「考察」することなしに、
「幸せ」に「生きる」ことはできないと考えます。
 
とは言え、「時間」のことを考えるのは憂鬱なことです。
「時間」の使い方に対する、「理想」と「現実」のギャップ。
多くの人が、このギャップに悩まされてきたのではないでしょうか?
 
私も、この「理想」と「現実」のギャップに苦しんでいます。ずっと。
 
はたして「時間」を「理想」的に使うには、一体どうしたらいいのでしょうか?
 
「気合い」とか、そういう言葉で誤魔化してはダメだと思います。
ちゃんと「考察」すれば、必ず解決の糸口が見つかるはず。
 
まず「心」と「頭」と「体」という観点で考えていきましょう。
 
「時間」を「理想」的に使えなかった時というのは、
その瞬間瞬間において「心」が本当にそれを望んでいなかったということがあるはずです。
 
何故、やる必要性は「頭」で理解しているのに、本当には「心」で望まないのか?
 
一つには、「体」のコンディションが挙げられます。
「体」と「心」は、つながっているのです。
疲れていたりして「体」のコンディションが悪ければ、
「心」は「頭」の言うことを聴かずに、
「体」の言うことを聴こうとします。
 
「心」の協力を得るには、「体」のコンディションを高く維持する工夫が必要なのです。
・・私は体験的に、その方法を知っています。
それは、朝運動をするということ。
 
私は昔東京の皇居の近くに住み、毎朝「皇居ラン」をしていた時期があります。
朝運動をすると、「体」のコンディションは一日とてもよかった。
そして、「心」の調子も一日とても望ましいものでありました。
 
今、新しい地に移住し、明日にでも久しぶりに走ってみようかなと思う次第です。
前の住居よりも、自然が豊かな場所なので、
雑草や鳥や周りの「命」を感じながら走ることを想像すると、なんだかワクワクします。
 
今は、とてもいい季節なんですよ。
雑草は一斉に「花」を咲かせ、ツバメや鳥たちが「唄い」ながら空を舞う。
そんな「幸せ」な風景を噛みしめて、明日走ります。
そして出社して、仕事をするつもりです。
 
まずは、これを試してみようと思います。
 
それから「時間」をちゃんと使う方法として、もう一つ仮説を提示したいです。
それは自分の「命」は、自分だけのものではないという意識をしっかりと持つこと。
自分だけのものだと思うから、勝手な使い方をしてしまうのです。
私は、会社という「組織」に属します。
「組織」においては、私は「仲間」から助けられ、「仲間」に貢献をする存在です。
すなわち、私の「時間」は「仲間」のために存在し、
「仲間」の「時間」は私のために存在すると言えるでしょう。
 
私の「時間」が「仲間」のものでもあるならば、
「時間」=「命」ですから、
私の「命」は、自分だけでなく「仲間」によって成り立っていると言えます。
 
目の前の「時間」は、自分だけのものではないんだ!という意識。
これをしっかりと持てば、目の前の「時間」をもっと真剣に使うことができる。
「仲間」に生かされている私は、
目の前の「時間」を真剣に使うことに「心」から嬉しくなってくる。
 
願わくば、「生きる」ことを「喜び」としよう。
目の前の「時間」を真剣に使うことが、
仲間の「幸せ」につながるという事実を「心」から噛みしめよう。
 
そうすれば、「時間」はキラキラと輝き出します。
「自然」の中で多くの「命」を感じながら楽しくジョギングするように、
「仲間」の「命」を感じながら楽しく仕事の「時間」を使えるようになるはずです。