「影」を愛する

ブログを描き始めて、今日は節目の通算500日目のブログとなります。
 
今日描きたいテーマは、私が「影」を愛しているということ。
 
キリスト教では、神が「光あれ。」と言って「光」ができたそうですが、
「光」というものは直進性があるため、全てに行き渡る訳ではありません。
「光」の恩恵を被る部分がある一方、必ず「影」の部分もできるのです。
 
聖書における人類最初の殺人は、
この「光」と「影」の不平等によって起こりました。
神に供え物をしたカインとアベルという兄弟。
兄のカインは農作物を神に捧げ、
弟のアベルは子羊の肉を神に捧げました。
 
しかし神は、カインの農作物を無視し、アベルの子羊にのみ目を留めたのです。
 
結局嫉妬に駆られたカインは、アベルを殺害してしまいます。
それに怒った神はカインを追放し、
カインが耕作を行っても作物は収穫されないようにしてしまうのです。
ウィキペディアカインとアベル」)
 
キリスト教信者の方は、この憐れな兄弟の話をどう解釈するのかなと思います。
神にそっぽを向かれ殺人を犯したカインは、神に罰せられて当然と考えるのでしょうか?
 
私は、カインに同情的です。
人を殺すことは、もちろんあってはならないことですが、
優遇される者がある一方、不遇な者が現れてしまうこの「世界」を嫌悪します。
 
「才能」に恵まれない者。「健康」に恵まれない者。「容姿」に恵まれない者。
「生まれた環境」に恵まれない者。「運命」に恵まれない者。「貧困」に苦しむ者。
 
「光」のよく当たる環境で生きる人達がいる一方、
その「光」に比例して、そこには必ず「影」が発生します。
 
今までの「人生」で、私という存在に大きな影響を与えた出会いは、
全て「影」の人達との出会いでした。
何か「心」が共鳴するものがあり、
私自身も自ら進んで「影」の人達と接点を持ってきました。
 
「光」の人達の発するものは、「頭」で理解できても私の「心」には届かない。
一方「影」の人達の発するものは、強制的に私の「心」に響いてくる。
 
私は「影」を愛します。
 
神や「世界」は、「光」の人達を愛するのでしょうが、
私は、「影」の人達の「苦しみ」や「一生懸命」に、「心」を動かし涙します。
 
現在の競争原理の資本主義社会では、「光」と「影」は明確に区分されるのです。
そして、受験戦争やマスメディアを通じて、
「光」の人達のみが生きるに値する「人生」を送れると、
多くの人が信じているように感じます。
 
そういった大きな流れに流されてしまって、
「影」の人々を蔑むことを当たり前に感じてしまっている人も少なくないと考える次第です。
 
でもね。
神が勝手に創った外部からの「光」の他に、
「生命」も内部から「光」を発していることを忘れてはいけないと想うんですよ。
 
「生命」が日々「一生懸命」生きて、様々なことを感じて、燃やし続ける「命」の炎。
 
きっと、その「生命」の「炎」が発する「光」は、
外部からの「光」がさんさんと当たるところでは見えにくいはずです。
 
そう。
「影」にいる「命」の「光」は、
外部の「光」に照らされている「命」よりもずっと発見されやすいと想います。
そして、「命」という「炎」の温かさも、
凍えるような「影」の中にいる場合において、
誰かを温めるという本来の価値を発揮できると想うのです。
 
「光」は既に、私達の中に。