「継続」は「命」の燃焼である

私は、今「モノ」です。
 
自分で自分のことを「モノ」として見ているので、
自分を「愛」することができません。
 
自分を「モノ」として見ていれば、
他者のことだって「モノ」として見てしまうので、
結局私は、他者を「愛」することもできていない訳です。
 
「愛」することができなければ、
「人」は「幸せ」になることはできない、と私は考えます。
なぜなら「愛」されることを求めたとしても、
この不完全な「世界」では、
それは砂漠の中で蜃気楼を追うような行為だからです。
蜃気楼のオアシスによって、真に喉を潤すことはできません。
 
「愛」は、追い求めてはいけない。
 
そう。自ら発信する所に、真の「愛」が宿るのです。
 
という訳で、ここ最近のブログでは、
自分を「愛」することをテーマにしています。
 
自分を「愛」するためには、どうしたらよいか?
自身を「モノ」ではなく「生命」として見る必要があります。
 
さて、自らの「生命」の息吹に気づくためには、
自らの「生命」を意図的に活動させることが手っ取り早いと考える次第です。
 
「生命」の働きには、どのようなものがあるか考えてみます。
 
一つは「一生懸命」。
これは「命」の燃焼そのものだと、私は考えます。
例えば、「一生懸命」な石というものは存在しない訳ですね。
 
それから「創造」。
これも「命」の専売特許。
パソコンという高度な「モノ」にだって、
何かを「創造」する機能を付加することはできません。
 
そして「継続」。
「継続」は「意思」の産物です。
「モノ」に「意思」はありません。
 
他にも、まだまだあると思いますが、
こういった「生命」活動を意図的に行っていくことが、
自らの「命」の燃焼に気づく方法なのだと思うのです。
 
さて、私は自分の「命」を感じるために。自分自身を真に「愛」するために、
昨日から始めていることがあります。
 
それが、ブログの「継続」です。
 
ブログという文章の「創造」を、自らの「意思」で日々「継続」させる。
これができるようになると、自分を「モノ」でなく、
かけがえのない一つの「命」として認識できるようになるのかなと思います。
そして、自分への愛おしさを感じるようになる。
自分に対して「無関心」でなくなり、
自分を「愛」することができるようになると想うのです。
 
現にブログを描いた日は、自己卑下のような現象が起きにくいと感じています。
 
想像してみて下さい。
日々の生活で常に、涙が出るほど温かい自分の「一生懸命」な「炎」を感じることを。
その感覚は、どんなに心強く愛おしく、自身に「幸せ」をもたらしてくれるでしょうか。