「北風」と「太陽」と「自分」の「心」

「自分」を「肯定」するということは、本当に難しい。
私は、そう思うのです。
 
多分、自然に「自分」を「肯定」できる人も、
世の中にはたくさんいるのだと思います。
 
しかし一方で、「自分」を「肯定」できない人々が、
かなりの数いるはずです。
 
今日は、そんな「自分」を肯定することができない人々のために、
同じ立ち位置の私が、
自分自身の「体験」を踏まえた「考察」をしたいと思います。
 
「自分」を「肯定」する方法として、
まず真っ先に思い浮かべるのは、
他者から褒めてもらうことですね。
 
しかし、「自分」に「不信」を抱えてしまったまま成人してしまった私たちには、
それを本当のことと受け入れることが、「無意識」レベルで難しい。
 
「相手は、本気で褒めてくれている」と「頭」では十二分にわかっていても、
「心」では本当には受け取れていない。
 
それは、とても「心」ないことなのですが、
自分の「心」が本当にそういう状態では「ない」ので、
仕方ないような気がします。
 
 自分で自分の「心」は、動かせない。
 
そう考えると、自分と自分の「心」は、
同一存在のようでいて、ズレのある異なる存在であるように思えます。
 
そもそも「自分」を「肯定」するという概念が、
「自分」の中に、異なる主体を持つ「二者」いるような物言いです。
 
異なる「二者」がいるのであれば、
一方が一方を動かすことは、かなり難しいと思います。
 
「北風」と「太陽」の寓話を思い出して下さい。
旅人のマントを外させようとしても、
「自分がこうしたい!」ということを相手に伝えたり強制したりするだけでは、
相手は動かないのです。
 
ただ「自分がこうしたい!」と言って、相手が動くときもあります。
それは、「子」から「親」に何か要求するとき。
特に赤ちゃんだったら、泣くだけで「親」は何でもしてくれます。
 
しかし「親」から「子」という構図になると、そうはいかない訳です。
「親」がいくら勉強しなさいと言っても、
「子」はその気にならなければ勉強はしない。
強制したって、嫌々表面的に勉強するだけです。
 
「子」が主体的に、「勉強したい」「勉強は楽しい」と思わないと。
 
さて、「自分」を「肯定」することも同じだと考える次第です。
すなわち、「思考」する「自分」が「親」、「心」が「子ども」です。
いくら「心」に「自分を肯定しろ」「自分を肯定しろ」と念じても、
「子」は「親」の希望通りに、「自分」を「肯定」してくれはしません。
 
そうではなくて、「心」に「その気」になってもらわないと。
 
では「その気」になるには、どうしたらいいか?
これはもう、そういう「環境創り」をする他ありません。
家にいても勉強できない人が、喫茶店に行って勉強するのは、このよい例だと思います。
言うことを聴かない「心」には、直接的なアプローチでなく、
「親」が「子」に接するような「北風と太陽」的なアプローチが必要なのです。
 
例えば自分を「肯定」するという今回のテーマにおいても、
逆に「ネガティブ」な「言葉」を「心」にぶつけるというのは、よい方法だと思います。
普段の生活や今までの記憶の中から、
自分にとってネガティブな言葉を収集して、「心」にぶつけるのです。
 
そうすれば「心」は、「なにくそ!」と感じて、
「でも自分はこんなこともできるぞ!」「あんなことだってやってきたぞ!」と、
奮い立つのではないのでしょうか?
ただし、急に多くのネガティブをぶつけてもそれは「暴力」に過ぎません。
しっかりと「心」が「理解」できるように、
「愛情」を持って段階的に噛み砕いて伝えてあげる必要があると思うのです。
 
私も含めて、自分を「肯定」できない人は「甘ちゃん」な人が多いと思います。
自分が「できていない事実」「やらかした事実」「人を傷つけた事実」。
 
これらをしっかりと認識することが、自分を「肯定」する鍵になると、
私は「考察」する次第です。