「人」は「モノ」になると、苦しい。

以前、
『自分の小さな「箱」から脱出する方法(アービンジャーインスティチュート著)』
という書籍の、「箱」という概念をご紹介しました。
私は、この研修にも参加する機会を得、
とても納得感のあるセミナーであったため、
ブログで紹介した次第です。
(過去ブログ:「箱」は「世界」を救う
 
その中で、
「人」は「モノ」として生きていくと苦しくなり、
「人」が「人」として生きられると「幸せ」になると描きました。
 
上記「箱」の研修では、人を「モノ」として見る時の見方を3つに分類しています。
(1)便利、(2)邪魔、(3)無関心
確かに「モノ」に対しては、この3つの感情しか持ち得ないのではないでしょうか?
 
では、「人」を「モノ」ではなく、
ちゃんとした「生命」として見るには、どうしたらよいか?
 
私は、こう考えます。
「結果」だけでなく「過程」を見ることであると。
 
以下は全て、「人」に対する「結果」です。
・「あいつ、使えねぇ」
・偏差値や業績
・持って生まれた「才能」や「容姿」
 
一方、「過程」とは何か?
それは、一つは「命」の燃やし方です。
仏教で言うように世界は「苦しみ」であり、
その「苦しみ」の中で、
「生命」は、どうあがき、どう悩み、どう苦渋の決断をしているのか?
 
そこを見ずして、もしくは想像せずして、
「人」を判断する場合、
それは「人」を「モノ」として見ているということになると思うのです。
 
この概念は、私の中ではとてもしっくりくるし、
多くの人の同意を得られるノーマルな考え方だと思います。
しかし誤ってはいけないのは、
「自分」が「他者」から「人」として見られることを、
「他者」に期待してはいけないということです。
 
そこには、いかほどの「意味」もない。
これを「他者」に期待する時点で、
その「他者」を「便利なモノ」に仕立て上げようとしていると思います。
 
そうではなくて重要なのは、自分が他の「生命」にどう接するかです。
どんな土壌に生まれようと、どんな能力や容姿を持って生まれようと、
今時点でどんな業績を残していようと、どんな結果になっていようと、
「生命」の本質である「一生懸命」に生きているということを、
どれだけ感じることができるのか?
 
そして、それができるようになると、
自分の中の「一生懸命」の「美しさ」や「尊さ」に気づくことができるようになります。
 
私は、雑草を見ることが好きです。
なぜ見ることが好きなのか考えてみると、
雑草の中の「一生懸命」を感じているからだと思います。
 
まずは身近な「生命」の「一生懸命」の「美しさ」を愛でることが、
「人」の社会において同じように「他者」を「愛」することの訓練となるでしょう。
 
そして、「自分」のことも「愛」することができるようになります。
 
これが、私が長らく考えてきた「幸せ」への到達理論です。
 
しかし、今時点も、これからも、
絶え間なく新たな「情報」や「知恵」が私の所に入ってきます。
この到達点に留まることなく、
更なる「幸せ」理論のブラッシュアップをしていきたいと想う次第です。
苦しんでいる誰かのために、
もっともっと役に立つ情報を提供していきたいと想います。 
 
これを読んで頂いているあなたに、お願いです。
 
 自分の中の「一生懸命」を、見捨てないで。
 それを見捨てると、あなたは「モノ」になってしまう。 それを見捨てると、あなたは他の「生命」の「一生懸命」も見えなくなってしまう。