「柔らかい価値観」

「柔よく剛を制す」
 
有名な言葉ですね。
中国の兵法書三略」が出典です。
 
この言葉の「よく」の部分は、「良く」ではなく「能く」という漢字があたります。
「能く」とは「できる(可能)」を表現し、
すなわち「柔らかいことは固いものを制することができる」という意味合いになる訳です。
 
なぜ「柔らかいもの」が「固いもの」を制することができるのか?
同義語の「柳に雪折れなし」をイメージして頂ければ、わかると思います。
 
「柔らかいもの」は自在に己の姿かたちを変え、
「固いもの」を受け流したり包み込んだりすることができる訳ですね。
結果として、「固いもの」は「柔らかいもの」にダメージを与えられないし、
逆に「柔らかいもの」は「固いもの」を包み込んで無効化してしまう。
 
さてこの言葉は、主に柔道などの格闘技において使われるイメージがあります。
しかしフィジカルな領域だけでなく、
精神的な領域においても、この言葉はよくあてはまると感じる次第です。
 
はたして、形のない精神領域に固い部分や柔らかい部分なんて存在するのか?
 
・・・しますよね?
 
不思議なことに、形もなく触ることもできない精神領域ですが、
私たちはなぜか「固い」「柔らかい」という表現を頻回に使っています。
 
例えば、
「あの人は頭(考え方)が固い」と言ったり、
「あの人は柔らかい思考ができる」と言ったりする訳です。
 
このように精神領域においては、「柔らかい」ことが優れているとされています。
 
さて今日のテーマの「柔らかい価値観」。
「人生」を生きるにあたり、
この「柔らかい価値観」を持つとよいのではないかと、私は想う次第です。
 
「人生」の営みとは、「人」との関わりであり、
「人」との関わりの際、大なり小なり常に互いの「価値観」の衝突が起きています。
 
小さな「価値観」の衝突の場合、
人々は無意識に柔らかく柳のように相手の価値観を受け止めています。
しかし、意識に上るほどの大きな「価値観」の衝突が起きた時に、
人々は怒ったり傷ついたりする訳です。
 
そのような相手の「価値観」が硬化した場合に、どう受けるのがよいか?
そこに「柔よく剛を制す」の教訓が活かされる訳です。
 
わざわざガチンコで「価値観」をぶつけ合わせ相手にわからせる必要がどこにあるのか?
それよりも、相手の「価値観」を受け止めてしまった方が得るものが大きいでしょう。
 
人々の「価値観」には必ず「栄養素」が含まれていると、私は考えます。
なぜなら「価値観」とは、
その人がこの「世界」に適応するために生成した「酵素」のようなものだからです。
 
例えば「ムチン」という山芋やオクラに有される「酵素」があります。
これは山芋やオクラのねばねば成分であり、
人が摂取すると疲労回復に役立つと言われているのです。
山芋やオクラがこの世界で生きるために必死に生成した酵素は、
私たちの体にも滋養を与えてくれます。
 
他者を恫喝することでこの「世界」を渡ってきた人の「価値観」と出会ってしまった時。
それだって「栄養素」です。
相手に強く出て意思表示するという場面も時には必要になります。
ですから、恫喝してくる相手の「価値観」からも学ぶことはあるのです。
 
なかなか難しいかもしれませんが、他者を恫喝する相手に出会った場合は、
相手の固い部分を受け流し、相手の柔らかい部分をつかむようにする。
そうすればきっと、解決の道も見えるような気がします。
(私にできるかと言うと、もちろんまだまだ修行が足りませんが・・・)
 
はたまた、困難な場面では萎縮してしまうような人の「価値観」に出会った場合。
固い殻にこもった相手の「価値観」を解きほぐす必要があります。
その場合も、固い殻の部分ではなく、
相手の柔らかい部分を探してコンタクトするようにすればいいのかなと思う次第です。
 
そうして、殻にこもる人の「価値観」にも「栄養素」があります。
それは、その殻に。
例えば、その殻を使った防御の技を身につけたなら、
ものすごい勢いのある固い「価値観」を突然ぶつけられた時に、
アルマジロのように一瞬丸くなり、
衝突のエネルギーが緩んでから相手の柔らかい部分との対話を始めることができます。
 
もし「人生」の目的を「心」の「成長」と仮定するならば、
他の「価値観」との練習試合はとても重要な日々の営みです。
 
練習試合が始まったら、積極的に「心」の鍛錬を意識すべきだと思います。
そうしてたくさんの練習試合を通じて、様々な技を会得したら、
「人生」は「幸せ」なものになっていくのではないでしょうか。