「怒り」への「怒り」

私は「怒り」が嫌いです。
「怒り」を憎んでいます。
それは、心のうちに潜む私の「衝動」です。
 
「怒り」を憎んでいるからこそ、
私は「優しさ」を追い求めているのかもしれません。
 
なぜ「怒り」を憎んでいるのか?
 
私の中の「怒り」の定義が、以下のようなものだからです。

自身の「感情」に基づき、人を攻撃する行為

そして、私は「感情」についてこのように思っています。
「感情」は当人の「心」のあり方によって発生する。
そのため、その「感情」は相手のせいではなく、当人に発した責がある。

と・・・杓子定規に考えていました。
同様の理由で、「怒り」だけでなく「喜怒哀楽」の「感情」全てを私は軽蔑していたのです。
 
「感情」は下等なものだと・・・
人間は「理性」や「知性」で動くべきものだと・・・
 
そう思い込んだ背景には、
私自身が他者の発する「感情」に傷つけられてきたことが大きいと思います。
 
他者の「感情」の慰みものになる、その悲惨さ、その劣悪さ。
誰しもが「人生」の中で体験することではないでしょうか?
そうして、その痛みから人々は「優しさ」を身につけていきます。
 
人から受ける「理不尽」は、いつも人の「感情」が震源地です。
戦争は人の「感情」から発生し、民族浄化も人の「感情」から発生します。
 
「感情」さえなければ、
「理性」に基づいたユートピアが気づけるのになぁ・・とは想います。
 
しかし、全ての存在には「意味」がある。
なぜこれほどまでに、人にとって「毒」となる「感情」が人々の中に存在するのか?
 
そこのところを、今後「考察」してきたいと思います。
そうすることで、見えてくる「人生」の「本質」があるはずです。