理屈の通じない「怒り」

前回、自分の中の「怒りをありのままに表現する」シャドウのお話をしました。
「シャドウ」とは、自分の中に幽閉した禁じられた「人格」です。
 
この自分の「人格」の一部を禁じることによって、二つの弊害が生じます。
一つは、その禁じられた言動を平気で行う他者に出会ったときに、
問答無用で他者のその「人格」までも否定して攻撃してしまうということ。
もう一つは、自身の人格の一部を幽閉してしまっているため、
本来の完全な自分の「人格」ポテンシャルを発揮できないということ。
(詳しくは、過去ブログ「シャドウにご用心」を参照して下さい)
 
さて実は、今朝「夢」を見ました。
その「夢」があまりにも印象深く興味深いものであったため、描き記しておこうと想った次第です。
 
「夢」の中で私は、純粋な「怒り」を体験していました。
その場で地面に寝転がって手足をジタバタして、
ものすごい歯ぎしりを繰り返す自分でも驚くほどの激しい純粋な「怒り」でした。
 
その「怒り」を「夢」の中で体験して、わかったことがあります。
「怒り」っていうのは、「理屈」じゃないんだと。
「感情」と「思考」は、全く次元の違う存在なんだと気づいたのです。
 
そのことは、例えば電車の中で全力でだだをこねて泣いている子どもを見ればわかります。
客観的に誰がどう見たって、泣いている子どもに正当な理由なんてない訳です。
 
「怒り」っていうのは「理屈」抜きなんだなぁ・・と、夢を見て妙に感心しました。
私は今まで、「理屈」抜きで発動する「怒り」は絶対に許されないと強く認識していたのです。
 
ですから、私は今まで「理屈」がある正当な「怒り」しか感じた記憶がありません。
「いじめ」のように、
「そりゃあ相手の方が悪いよね」と「理屈」を持てる相手にしか「怒り」を感じないのです。
 
発達障害の私の不器用さゆえ、他者から受ける私への正当な攻撃も多々ありますが、
それらに対しては「怒り」を持てず、ものすごくもやもやとした気持ちを抱えます。
 
親からの言葉のように「理屈」があるものについては、
「怒ってはいけない」と「心」に刻まれている訳ですね。
 
じゃあこの封印された「怒り」人格を単純に外に出せばいいのでは?とも考えますが、
そんなことをしたら大変なことになります。
電車でだだをこねる子にいきなり社会人をしろと言っても不可能なように。
 
とても、そのままでは外に出せません。
 
その封印された「怒り」人格の想いはしっかりと「心」に感じた上で、
「思考」による「知恵」と「技」で外部への表現はコントロールしてあげる必要があるのです。
 
「怒り」はエネルギーの固まりです。
現に私が夢の中で体験した「怒り」人格では、
核エネルギーのようなものすごい内在エネルギーを感じることができました。
 
ですから「怒り」は麻痺させてはいけないのです。
生き生きと「怒り」を感じ、しかし外に表現するときには「思考」の力で制御をかける。
 
そのような「生き方」が、私の失われた「人生」を取り戻す方法なのかなと想う次第です。