佇む巨大な「シャドウ」

心理学の言葉で、「シャドウ」という言葉をご存じでしょうか?
この「ブログ」で、何度か取り上げています。
(過去ブログ:「シャドウ」にご用心
 
「シャドウ」とは、「心」に常駐したタブーです。
人は様々な「人格」の側面を持ちます。
その「人格」のうち、しつけ等で禁じられた「人格」を「シャドウ」と呼ぶのです。
 
例えば、「女の子らしくしなさい!」と強くしつけられた女性がいるとします。
彼女の「心」には、もともと活発な「人格」があったのですが、
親からのしつけによって、その「人格」はタブーとして「心」の奥底に幽閉されてしまう訳です。
幽閉されているだけなら、実害はないように見えるかもしれませんが、
この強烈な「タブー」は、自分以外の「人格」をも攻撃してしまいます。
例えば、その女性が非常に大ざっぱで豪快な同性に出会ったとき、
「シャドウ」を有するその女性は、強烈な嫌悪を相手に感じるのです。
そして、意味もなく相手を攻撃します。
攻撃された相手は、当然びっくりする訳です。
客観的にその攻撃に全く正当な意味なんかありません。
攻撃の理由は、攻撃される方になく、攻撃する方の「心」にある訳です。
「心」の中に形成された問答無用の「禁止」。
やっかいなのは、親から押しつけられたその問答無用の「禁止」の刃を
他者に向けることに対しても問答無用で正しいと思いこんでしまうこと。
繰り返しますが、攻撃される側には全く非はありません。
 
話が少しそれますが、「いじめ」にもこの理論は当てはまります。
いじめの対象がむかつくのは、いじめる側の「シャドウ」に反応しているだけ。
いじめの対象に全く非なんてありません。
悪いのは、いじめる側に強く刷り込まれた問答無用の「タブー」なのです。
 
さて、こんな解説をしている私ですが、
自分の中に非常に巨大な「シャドウ」がいることを、昨日まですっかり忘れていました。
 
それは、ありのままに「怒り」を外に出す「人格」です。
私は普段意識できないほど強烈に、「怒り」を表現することを忌避して押さえ込んでいます。
 
子どもの頃には、脱腸の手術を2回もするほど、
私は、お腹に力を込めてものすごい大声で泣いていたそうです。
(過去ブログ:子どもの頃の記憶がない!
しかし成長して気づいた頃には、私は「感情」を表に出さないようになっていました。
「感情」をありのままに表に出さない「シャドウ」が、私の「心」に形成されたのです。
 
その「タブー」は、私をずっと縛り付けてきました。
その結果、ありのままに「怒り」を発する人に対して、私は「怒り」を感じる訳です。
しかし、その自分が発する「怒り」にも反発するので、その「怒り」はすぐさま押さえ込まれ、
「怒り」忌避のハウリングが起こり、
結果として「心」にもやもやとした不快感がのみが残るということになります。
 
私の「シャドウ」は、少し複雑なのです。
 
先日、昔の知り合いから「不快」な電話がありました。
しかし私がその電話に採った対応は、どっちつかずの意思が曖昧な対応でした。
その結局、もやもや落ち着きのない気持ちが現在まで続いているのです。
 
「怒り」を感じたらそれをありのままに表現することは、罪なことである。
もしかしたら、ずっと当たり前にそう信じていた私の認識が、間違いなのかもしれません。
 
「感情」を生き生きと表現することを禁じられた私の「シャドウ」。
そろそろ彼と腰を据えて話をしようと想います。
 
「ずっとずっと、ないがしろにして無視してしまって・・・悪かったね・・」