「ルサンチマン」と「真善美」

ルサンチマン」という言葉をご存じでしょうか?
知らない方は、知っていると文系的にかっこいいかもしれませんよ。
 
ルサンチマン」は、
「神は死んだ」という言葉で有名な哲学者フリードリヒ・ニーチェの提唱した概念です。
哲学者ニーチェは、超訳が出版されたり、パロディー漫画が出版されたりと、
最近日本社会で、哲学になじみが薄い人達にも浸透しつつあります。
(よかったら過去ブログ『「ルサンチマン」に抱擁を』ご覧下さい。
  結構よい出来です。)
 
さて「ルサンチマン」。
 
「神は死んだ」と宣言したロックなニーチェが、
「善」だってマヤカシなんだよ!とぶち上げました。
彼曰く、「善」なんて「強者」への怨嗟から来る「弱者」の自己正当化に過ぎないのです。
 
上記過去ブログでも引用しているわかりやすい例えがあります。


あるところに平和を愛する部族Aが暮らしていました。

ところが、ある日好戦的な部族Bがやってきて、

部族Aの男の若者を皆殺しにし、若い女を奴隷として連れ去り、

蓄えてあった宝物や食糧は根こそぎ奪われました。

そして、住居や倉庫、畑などに火をつけて立ち去ったのです。

残されたのは、連れて行っても足手まといになる老人と幼児のみ。

この時、残された老人達はどうするか?

部族Bを追って復讐することはできません。

部族Bの力は絶大なのです。

この状況で老人達にできることは、

自分達をひどい目に遭わせた連中を「道徳的に非難すること」だけなのです。

「自分達は部族Bに何も危害を加えていない。

 なのに、自分達をひどい目に遭わせた部族Bは悪い奴らだ。

 それに比べて、自分達はなにも責められるところのない善い者だ。」

(引用元「ニーチェ-すべてを思い切るために:力への意志貫成人著)


このような例えを見せられると、
「なるほど、善はマヤカシなのかもしれない」と思う人が多いのではないでしょうか?
 
私は上記過去ブログでは「それでも人には良心がある」という立場を採っていましたが、
今現在は「確かに善は本質的なものではないね」と感じています。
 
「善」なんて人それぞれな訳ですし、
イスラム教の自爆テロに見られるように、自分勝手な「善」なんて腐るほどあるのです。
例えば上記部族Aで老人から「部族Bは悪魔だ」と教えられた幼児が高校生ぐらいに成長して、
部族Bの村の学校で自爆テロを決行したとします。
結果として、自爆テロ犯と同い年の子どもが多くの命を失いました。
 
部族Aは、自爆テロを行った少年の銅像を建て「英雄」と祭るかもしれませんが、
少年の家族はきっと「心」から悲しむでしょう。
理不尽な自爆テロで子供を失った部族Bの家族達の「心」に絶望が訪れます。
 
さて客観的に見て、この一連のやり取りの中で、「善」は存在するでしょうか?
存在しませんよね?
 
あるのは、「悪」だけなのです。
(A)かつて部族Bが部族Aに残虐な行為を行ったこと。
(B)部族Aの「反部族B教育」によって洗脳された少年が、部族Bで自爆テロを行ったこと。
 
この2つは、独立した「悪」です。
決して(A)があったから(B)が正当化されるものではありません。
 
ただ情緒的に考えたときに、(A)よりも(B)の行為に理解を感じる人が多いはずです。
(B)の行為は、部族Bからは許されない「悪」でも、
部族Aの人にとっては「悪」ではないと認識される余地は大いにあります。
 
そう考えると、絶対的な「悪」というのも存在しないのかなと思う訳です。
 
古代ギリシャの哲学者プラトンが提唱した「真善美」という概念があります。
人間の理想の状態を表した言葉です。
(過去ブログ:「真」と「善」と「美」
 
上記3つの概念のうち「善」は、
人によってコロコロと内容が変わる本質的な概念ではないということを見てきました。
 
では「真」は、どうでしょうか?
そもそも、何が「真」かわかる人って世の中にいるのでしょうか?
 
実はこれについては、万人が部分的に「真」をわかると私は考えています。
例えば、頭の中に「リンゴ」を想像して下さい。
頭の中にイメージされたリンゴは、
シンメトリー(対称性)の美しい傷一つない瑞々しいリンゴではないですか?
 
このイメージされたリンゴを、スーパーや八百屋に買いに行っても、
同じものは絶対にみつかりません。
実物のリンゴは、微妙に左右対称でなかったり、傷がついていたりするのです。
 
すなわち、私たちは教えられてもいないのに「真」のリンゴを知っているということになります。
ですから私たちが現実世界の事象に接するときに、
これは「真」に近いとか遠いとか、「真」を知っていれば無意識に判断できる訳です。
 
「美」を知るセンサーも、同様に私たちの中に備わっていると私は考えます。
 
多くの人が利他的なヒューマニズムの映画に涙するように、
そして多くの人が不協和音よりも和音を愛するように、
万人に共有される「美」の概念がきっとあるはずです。
 
そういった普遍的な「美」が人々に共有されているからこそ、
芸術家や音楽家という仕事が成り立つのだと考えます。
 
そのように考えると、人は「真善美」を目指すのではなく、
「真美」の2つのみを目指すべきなのかなと思う次第です。
 
「善」は、部族Aの例で見たように、
国家や他者に利用されてコントロールされる恐れがあります。
 
「善悪」というマヤカシに囚われずに、
個人としては、いかに「真」か?、いかに「美」か?、という軸で生きていくことが、
「心」の「幸せ」への道ではないかなと考える次第です。
 
「真」でない「善」や、「美」でない「善」は、存在します。
 
あなたは大丈夫ですか?
醜い「善」や偽の「善」に囚われていませんか?