「真面目」と「一生懸命」

私のブログは、
「これでもか」というくらい「一生懸命」という言葉に溢れています。
私は「一生懸命」という言葉が大好きです。
 
仕事をするときには、「一生懸命」を合い言葉に仕事をします。
ですから、サボっている人は嫌いです。
 
逆にプライベートの時間での悩みは、
「一生懸命」になれないこと。ダラダラしてしまうこと。
でも今は、少しずつ「一生懸命」になれてきています。
こうして、朝にブログを描けていることにも満足です。
 
このように「一生懸命」に対して偏愛をしている私ですが、
そうすることで、弊害も生じてしまっているように最近想います。
 
原因は「一生懸命」が言い訳になってしまうということ。
「一生懸命」というのは、自分の時間やエネルギーを何かに傾けますと言っているだけで、
行動の「方向性」や結果の「質」を保証するものではありません。
 
人は誰しも多くの仕事を限られた時間の中でこなしている訳です。
そんな制約がある中ただ漫然と「一生懸命」仕事にエネルギーを注力しているだけでは、
いい仕事はできません。
「一生懸命」は独善的なのです。
 
私は「一生懸命」という言葉を愛しているし、
どんな能力を持っている人であれ「一生懸命」頑張っている人は好きだと思っていました。
しかし、それは思い込みでした。
 
「一生懸命」頑張っていて方向性が違う人を見たときに、
正直自分の中にイライラした気持ちが生じることを感じたのです。
それは結局、自分を鏡で見たらこうなるという事実でもあります。
 
「一生懸命」だけでは足りない。
その場での役割を真剣に捉え、何が一番組織やチームに貢献できるか。
「真面目」に仕事に取り組むことが必要なのです。
「心のエネルギー」も「頭脳」もフル投入して、最大限の答えを出す。
 
それが、社会性を有する人間というものに生まれついた者にとっての使命なのでしょう。
 
「全体」は私。私は「全体」。
「個」の殻を打ち破り、真に「全体」のために生きること。
 
北朝鮮のように、「全体」に操作されろと言っているのではありません。
あくまで、「全体」と私の双方の「幸せ」を目指して。
 
個にとっての「生」の「本質」は、「一生懸命」。
集団で生きる者にとっての「生」の「本質」は、「真面目」。
 
そう考えると、例えば雑草は「一生懸命」生きていますが、
「真面目」に生きているかどうかは不明ですね。
雑草はあの生きるか死ぬかの地獄のような環境で「一生懸命」生きるしかありません。
しかしおそらく、「真面目」には生きていないでしょうね(笑)
 
「一生懸命」の更にもう一つ上の「真面目」。
私は、そこを目指して取り組んでいきたいと想います。
 
あ、私はこれからも「一生懸命」生きている人は大好きになりたいです。
 
強い人でも弱い人でも、日向の人でも日影の人でも、
「一生懸命」生きている人に、
私はこれからの人生で自分の力を磨いて貢献していきたいと想います。