「喜び」には「自由」の感覚が必要

今日は「リヴィング・ウィズ・ジョイ」という書籍から、
「自由」の感覚がないと「幸せ」を感じられないというお話をしたいと思います。
 
本日のブログ記事の素材は、以下の2つの書籍内容の組み合わせです。
 
(1)「リヴィング・ウィズ・ジョイ」(サネヤ・ロウマン著、マホロバアート)
  職場の同僚から紹介して頂いた書籍です。
  多少は「本質」の目利きができるつもりの私から見て、
  この本には驚異的なまでの純度で「本質」が詰まっています。
  平易でわかりやすい文章で書かれていますが、
  「本質」の密度がすごすぎて、読み進めるだけでも多量のエネルギーが必要です。
  全部で274ページありますが、実は私はまだ219ページまでしか読めていません。
  しかしそこまでのページには、ほぼ9割近くの文章にマーカーがついているのです。
  哲学書等の難解な文章にも耐性がある私ですが、
  「本質」の純度がすごいこの本には、よい意味で手こずらされています。
  「人生」とか「幸せ」とかそういったコンテンツに興味がある方には、
  購入して読むことをオススメしたいです。
  ただ書籍のジャンルは、スピリチュアルです。
  書かれている「本質」は、ハイヤーセルフという存在からのアドバイスとなっています。
  そういうことに抵抗を持つ人は苦手かもしれませんが、
  要は書いてある中身の方が重要です。
  訒小平は言いました。「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」
  「本質」を知ることの重要性をご存じの方には、とても収穫の大きい書籍です。
 
(2)「フランクル入門 どんな時も人生には意味がある」(あるいは「夜と霧」)
    (諸富祥彦著、コスモス・ライブラリー)
  ロゴセラピーという心理療法を提唱したヴィクトール・E・フランクル博士。
  (ヴィクトール・E・フランクルウィキペディアは、こちら
  (ロゴセラピーのウィキペディアは、こちら
  彼は「夜と霧」の著者として、非常に有名です。
  「夜と霧」は、1991年のアメリ国会図書館の調査で
  「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入り、
  読売新聞による2000年の「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、
  翻訳ドキュメント部門第3位に入りました。
  「夜と霧」では、
  第二次大戦下で彼がアウシュビッツに収容された際に観察した
  人間模様について書かれています。
  驚くことにアウシュビッツのような地獄の極限状態においても、
  「絶望」にのっとられずに「幸せ」を見出そうとした人々がいるのです。
  今回のブログテーマ『「喜び」には「自由」の感覚が必要』にも大きく関与します。
  「夜と霧」を読んだことがない方には、是非読むことをオススメしたいです。
  特に今現在「絶望」の縁にいらっしゃる方に。
  さて、そのヴィクトール・E・フランクル博士が提唱したロゴセラピーの解説本が、
  上記「フランクル入門 どんな時も人生には意味がある」です。
  ロゴセラピーについては、
  私も過去ブログ『「幸せ」の見つけ方(その3)』でも簡単に解説しています。
  「ロゴセラピー」のすごいところは、
  「幸せの要素はこの3つね」と特定してしまったことです。
 
 
さて、前置きが長くなりました。
今日のテーマである「自由」と「喜び」の関係についてです。
具体的には、「リヴィング・ウィズ・ジョイ」の15章についての私なりの考察となります。
 
まず私の目からウロコが落ちたのは、
「自由」は「喜び」のためになくてはならない、という表記です。
書籍には、以下のように書かれています。
 自分がとらわれていると感じたり、
 自分の権利が奪われていると感じるところが少しでもあると、
 喜びを経験することができない。
 
これは本当にそうだなと感じます。
私がこうしてブログを描くことに「喜び」を感じているのは、
誰にも制約されずに「自由」に描いている「感覚」があってこそです。
他にも、日常生活で「喜び」を感じている時というのは、
「自由」の感覚が大前提だということに考えが至ります。
例えば、仲間との飲み会。
「自由」意思で参加して、「自由」に話ができてるからこそ、そこに「喜び」が生まれます。
職場に拘束されてしまう「仕事」であっても同様のことが言えるのです。
自分に与えられた「裁量」に目を向け、
自分なりの「自由」な手法で組織に貢献しているという感覚があると、
「仕事」にももちろん「喜び」を見出すことができます。
そして、それは地獄のアウシュビッツにおいても同様だということを、
ヴィクトール・E・フランクル博士は、「夜と霧」で述べているのです。
アウシュビッツに収容されたユダヤ人の方々の振る舞いは、2つの種類にわかれました。
(1)動物のように幼児のように退化してしまう人々
 目の前の「快」だけを求めるようになってしまう人々が多くいたようです。
 仲間が自殺しても悲しまず、仲間の死体を放置して、死んだ仲間の靴や洋服を奪い合う人々。
 看守の命令を絶対と捕らえ、動物のように看守に服従し、仲間を喜んで傷つける人々。
(2)一方で、人間らしさを忘れずに生きた人々がいます。
 ユーモアを披露して、仲間を癒し、看守にまで笑いを提供した芸人。
 自分がいつ殺されるかもわからないのに、
 窓の外に生える木の心配をして花が咲くと、そのことを心から喜んだ女性。
 
(2)のグループの方々は、どうして「人間らしさ」を失わずに済んだのか。
フランクル心理学によれば、
それは「幸せ」3要素の一つ「態度価値」を感じていたからと解釈されます。
以下は、「態度価値」について過去ブログで解説した文章の引用です。

自分自身ではどうしようもない状況、変えることのできない運命に直面した時、

その窮状に対して、ある態度を取ることによって実現される価値のことです。

例えば、死や病、生まれながらの体質や気質、容貌、生まれた環境。

例え過酷な運命によって「創造価値」と「体験価値」を奪われてしまっても、

運命に対してどのような態度を取るか、その運命をどう引き受け、

そこから自分の人生をどう創っていくのかによって、得られる「意味」があります。

例えば、どうしようもない苦難にぶつかった時、

それを成長のための試練と捉えようとする考え方は、

意にそぐわない人生にも「意味」をもたらすことができるのです。

上記文章では、運命を引き受ける「態度」と「意味」に重点を置いていますが、
この「態度」というのが、
自分は強制されておらず「自由」であるという「感覚」と同義だと私は考えます。
 
すなわち、
自身の「言動」や「生き死に」まで他者の管理下にある
アウシュビッツのような極限の環境においても、 
「自由」の「感覚」を持つことができるし、
その「感覚」に基づいた「喜び」を得ることができるということです。
あんな地獄の環境で、常にユーモアを披露した芸人さん。
彼には、ユーモアを披露することは「自由」だという「感覚」があったのではないでしょうか。
また、自分はいつ殺されるかわからない状況なのに、
窓の外に生える木の心配をして花が咲くと、そのことを心から喜んだ女性。
彼女の木を想う気持ちは自由です。
それは、誰にも「想うな!」と規制されるものではありません。
 
ですから、どんな状況にあっても「自由」の「感覚」(すなわち「態度価値」)を持つことが、
「幸せ」な「人生」を送るにあたって非常に重要なことなのです。
 
「な〜んだ。自分はアウシュビッツにいる訳でもないし、そんなこと簡単だ。」と、
思いますか?
 
ところがどんな環境の人であれ、
「自由」の「感覚」を持つということは結構難しいようです。
リヴィング・ウィズ・ジョイ」では、その理由をこう書いています。
「経験」が「自由」の邪魔をする。
特に子どものころの経験が、「自由」の「感覚」の邪魔をします。
親子関係で植えつけられたタブーが、大人になった私たちの「自由」も拘束するのです。
 
例えば、楽しく絵を描いていた子どもに対して、
親が「そんな絵ばかり描いてないで勉強しなさい」と言ったとします。
そこで、絵で何かを表現するという「自由」に「ロック」がかかってしまう訳です。
 
まあ育児というものは、そういうものなので、
大人になった私たちは、自分の「心」の中の「ロック」を見つけて、
「もうロックを外しても大丈夫だよ」と自分の「心」に話しかける必要があります。
 
「ロック」が外れたところから、「生きる」「喜び」の花が開くのです。
 
逆に、「自由」でないと感じるところに「不幸」が発生します。
 他者にこんなことを強いられている、とか
 (自分の容姿や才能も含めた)外部の環境からこんな制約をこうむっている、とか。
つまり、「自由」を感じないと「被害者」になってしまうんですね。
そうすると、「自分は、なんて不幸なんだ」ということになっていまいます。
 
「心」の中の「自由」と「強制・制約」の勢力図を変えるためには、
「自由」に意識の焦点を当てることが重要であるようです。
例えば、家で一人で料理を作っているとき、あなたは誰にも今夜の献立を変更されません。
例えば、職場で仕事をしているとき、
遂行するタスクは決まっていても手法はあなたに任されています。
 
どんどん、自分の中の「自由」を見つけましょう。
そして、過去の「経験」によって「ロック」された「自由」を開放していきましょう。
 
「自由」を「感じる」ということは、「主体的」に生きているということです。
「主体的」に仕事をしなさいと言われて、難しいと感じている人たちも、
自分に与えられた「裁量」の中に「自由」を「感じて」仕事をしなさいと言われれば、
そんなに困難なことではないとわかります。
 
逆に言えば、従業員に「裁量」を与えることの意義も見えてくる訳です。
「裁量」は、従業員の仕事の「喜び」すなわち「モチベーション」に直結します。
まあ、従業員がその与えられた「裁量」に「自由」な「感覚」を感じることが前提ですが。
与えられた「裁量」に「自由」どころか「恐れ」を感じる従業員も少なくなりません。
繰り返しになりますが、
各人の「自由」の「感覚」は、過去の「経験」から「ロック」されていることも多いのです。
 
さて、「自由」の「感覚」がないと「喜び」を感じられないというお話。
あなたにとって、興味深いものだったでしょうか?
「幸せ」を得るためには「自由」を「心」に抱くことが必須であると、私は感じています。