「条件付愛」と「つながり」

現在「つながり」について、「考察」しています。
私が知りたいのは、人との「つながり」を得る方法です。
 
今までのブログ記事では、戦国武将大谷吉継を例に、
以下の2点が「つながり」の要素になり得ると「考察」しました。
(1)「恩」(大谷吉継石田三成
 詳しくは、過去ブログをご覧下さい。
(2)「人間性に惚れる」(大谷吉継と湯淺五助)
 詳しくは、過去ブログをご覧下さい。
 
時に「つながり」は、自身の「命」よりも輝く「価値」を持つようです。
実際に上記2事例で登場する人々は、「つながり」のために「命」を落としています。
そして不思議なことに、そのお話に触れる多くの人々は、
「バカな話」とか「酷い話」というネガティブに捉えるのでなく、
「美しい生き様」とか「すごい話」というポジティブに捉えるようです。
シビアに「そんなことのために命を落とすことはバカなことだ」と考える人もいるでしょうが、
ネット上で紹介されている論調がポジティブなものであるため、
やはり多くの人の「心」をポジティブ方面に動かしているのだと思います。
 
そんな、時に「命」よりも重くなる「つながり」というものを、
私もずっと欲しいと願ってきたのです。
 
「大金」なんかよりも「つながり」が欲しい。
 
「これだ!」という「つながり」を見つけられたら、
私の「人生」は満足です。
もうそれ以上何もいりません。本当に。
 
そのためには、「つながり」の「本質」を解明しないと。
何かを真に持つためには、その「本質」を知ることは必須です。
 
例えば、「結婚したい」という願望があったとしましょう。
晴れて結婚相手が見つかって結婚したら、それでその願望は満たされるのか?
皆さんのご想像のとおり、満たされません。
せっかく結婚したのに、夫婦喧嘩ばかりの毎日。
「自分の望んでいたものは、こんなものじゃない!」と言っても、もう遅いのです。
 
「結婚したい」という願望の「本質」は、何だったのか?
複合的な「本質」の介在があるかもしれません。
例えば・・・
 (1)独身ではなく既婚者という社会的ステータス
 (2)子どもが欲しい、家族が欲しいという願望
 (3)心の「つながり」
 
上記の例で言えば、これら3つを満たすことを検討しないといけない訳です。
結婚したら、自動的に上記3つが手に入る訳ではありません。
まあもちろん、(1)は自動的に手に入るでしょうけど、
相手の意向を確認しないまま結婚してしまって、
(2)の願望に食い違いが出ることもあるでしょうし、
(3)に至っては、『「結婚」→心の「つながり」』という因果関係は全くありません。
 
もし「結婚したい」と願う「本質」が(3)のみならば、
きっとあえて結婚する必要もないと思うのです。
 
それよりも大切なことは、
心の「つながり」とは何か、更にその「本質」を「考察」し、
「つながり」そのものをダイレクトに取りにいくことなのだと考えます。
本当に「つながり」を欲しいと願うのなら。
 
もちろんその追求の結果として、「結婚」していたということもあろうかと思います。
そういった真に求めるものを見据える追い方であれば、
疑似餌に引っかかって苦しむことはなくなるはずです。
また、「結婚」以外で「つながり」を得る方法を見つけたのならば、
あえて「結婚」する必要もないと思います。
この「人生」で、それが真に求めていたものならば。
 
真に必要なものだけを、求め享受する「人生」。
「Simple is best.」です。

という訳で、私も「つながり」の「本質」を探っています。
私が「一生」をかけてでも手に入れたい宝は、真の「つながり」なのです。
 
さて「つながり」の要素として、
「恩」と「人間性に惚れる」という2要素を過去ブログで提示しました。
ここまでの「考察」でわかったことは、
おそらく「つながり」は「条件付」だということです。
例えば、「恩」があっての「つながり」、「人間性に惚れた」から生じた「つながり」。
 
私も含めて全ての人は「神様」ではないので、
無条件にどんな人とも「つながり」を持てるとは思えません。
やはり、「こういう人はムリ」という相性もあるはずです。
 
そもそも「つながり」は相互関係なので、
相手も自分を受け入れていなければ「つながり」なんて発生しようがありません。
そういう意味では「神様」ですら、
全ての人と「つながり」を持つことは難しそうです。
「私を信じない者は地獄に堕ちる」と言う「神様」もいるようですが、
結局その「神様」は全ての人類を振り向かせることができていません。
 
だから「つながり」は、相手との「縁」があって初めて達成される。
どんなに完全無欠な人でも、
「縁」がなければ「つながり」を得ることができない訳です。
 
ですから、「つながり」は「縁」頼みということが、
現在の私の一次的な解となります。
 
極端な話をすれば、どんなに自分を磨いたって、
「縁」がなければ一生「つながり」を持たずに終えるでしょうし、
自助努力をほとんどしない人でも、運命の人と出会って、
易々と「つながり」を持つこともあるでしょう。
 
しかし、
「そんな運任せなんてイヤだ!」
「自分は確実にこの人生で真の「つながり」を体験したいんだ!」
という人もいると思います。
自分も、そうです。
 
そうした時に、まず確実に得られる「つながり」として、
自分との「つながり」というものがあるのかなと思っています。
 
どんな数奇な運命か、私は「この自分」に生まれつきました。
この容姿、この資質、この生まれた環境、この共に過ごした経験、この愛おしさ。
 
運頼みでない100%ブレない「縁」を持つ自分。
まずは、そんな自分との「つながり」を得ることが可能かもしれません。
 
「ようやく自分を観てくれたね!」
はたして、そんな声を聴くことができるのかどうか。
 
「どうやったら自分とつながりを持てるのか」については、
次回以降の「考察」に回したいと思う次第です。
 
「同床異夢」
本当に自分のことを観てくれて、本当に自分のことを心配してくれて、
「本当に自分がここにいること」を喜んでくれるのは、世界にただ一人。
自分なのでは、ないでしょうか?