「補欠」を代表して

私の好きな漫画家で、
冨樫義博さんという方がいらっしゃいます。
その方の描くキャラクターが、とても魅力的です。
主人公側も相対する側も、
それぞれの人生哲学が観えるほど深く描写されています。
読者は、自然と彼の紡ぎ出すキャラクターに同調し、
次第にストーリーに飲み込まれていくのです。
 
さて、冨樫さんが描いた短編漫画に「レベルE」という傑作があります。
短編で複数の主人公が登場する構成なのに、
様々なキャラクターの人間性が宝石のように輝き、記憶に残るのです。
 
その中に登場する野球部のキャプテンが、
メンバーの一人一人にねぎらいの言葉をかけていた場面があります。
そして、そのキャプテンが去った後に、
マネージャーが補欠の選手にこう言ったのです。
 
「メンバーさ選ばれねかった人も、みんな裏方さ徹してくれて
 主将は恥ずかしがって言わねけど「皆さ感謝してる」って泣いたこともあんなーぜ」
 
私にとって、この言葉はとても印象に残りました。
それは、私の「人生」がある意味「補欠」だからです。
前回のブログに描いたとおり、
私は一般的な人が享受するであろう「結婚」や「恋愛」や「仲間」というものを
体験できていません。
 
 自分が「補欠」であるということ。
 
その事実だけでも辛く耐え難いことです。
 
それに加えて、現実社会の「補欠」にはもう一つ辛いことが起こります。
それは、「レギュラー」が「補欠」を毛嫌いしたりバカにしたりすること。
 
どうしてこんなことが起きるんだろうと、不思議に思います。
私の考える理由は、以下の2点です。
 
(1)人を「モノ」として見ようとする社会の風潮
 学校に入った時から、人の「モノ」化が始まります。
 人は「使える人間」と「使えない人間」に、分けられるのです。
 通信簿、偏差値、内申点
 それまで自分を護ってきてくれた親からも、成績が悪いことで人間性を否定される。
 「不良品」の烙印を押された子供達が「不良」になるのは、当然のことでしょう。
 彼らは「自分達はモノではない!」と、人間らしく反発しているに過ぎません。
 そして「使える」と判断された「合格品」達の価値観も歪んでいく訳です。
 同じ対等の人間なのに、「不良品」達の人間性までも劣等だと思い込んでしまう。
 そうして、「合格品」達は親になり、子どもにその歪んだ価値観を教えていく。
 こういった社会の流れについて、私は違和感を覚えますが、
 おそらく世の中の多くの人が疑いなく普通に受け入れています。
 また今の社会は「補欠」にとって非常に不利な環境ですが、
 この歪な環境は実は「レギュラー」にとっても毒です。
 この「一歩後退したらガケがある環境」は、「レギュラー」から余裕や安心を奪います。
 誇張でも何でもなく「補欠」になったら「死んだ方がまし」と当たり前に皆思っている。
 警察庁の統計では、「就職失敗」による10〜20代の自殺者数は
 平成19年の60人から23年は150人にまで増加しているそうです。
 自殺までいかないにしても、
 例えば親子というかけがえのない絆に「補欠恐怖症」がヒビを入れるケースは
 無数にあると思います。
 
(2)「補欠」への無関心
 「補欠恐怖症」に陥った社会は、「補欠」を見ようとしません。
 どうしても「レギュラー」で、しかも「花形選手」に人々の目が行ってしまうのです。
 ドラマや映画、漫画や小説、多くの作品では、
 恋多き、能力の優れた主人公が活躍します。
 コミュ症の主人公のドラマなんて観たいですか?
 だけど実社会では、「補欠」の人も「レギュラー」と同じように自分の人生を生きています。
 例えば「ニート」の人をバカにする人もいますが、彼らは彼らで苦しんでいるのです。
 それも、普通に社会で生きていける人とは質の異なる「絶望」に近い苦しみを。
 あなたは、「ニート」の人達の苦しみを想ったことはありますか?
 「愛の反対は無関心」です。
 「補欠」の人達は、「愛」という光に対して日影になっています。
 ただそれだから、「補欠」は「愛」の光の眩しさを理解しやすいとも想う次第です。
 
「レギュラー」と同じように他者に貢献している「補欠」もたくさんいます。
「レギュラー」が家族を持ち家族に自分の資源を集中させる一方、
「補欠」は、「レギュラー」達にできない領域に資源を投下するのです。
例えば、私は妻子がいない分、
両親の実家に頻繁に帰り、両親と時間を過ごします。
たまに4歳の甥と実家で遊び、彼を楽しませてあげたり。
また、話すと長くなるので省略しますが、
「レギュラー」の人達にはできない支援をして、
複数の人の「人生」がよい方向に向かうことを手助けしたこともあります。
このブログだって、私に妻子がいたら描けていなかったでしょう。
時間という資源的にも、描く内容のインスピレーション的にも。
 
「補欠」だからできる貢献や役割が存在します。
 
日影の雑草だからこそ、咲かせることのできる「花」もあるのです。
私は、このブログでその「花」を咲かせていきたいと想います。