人にだけ「関心」が持てない

昨日のブログのテーマは、マザー・テレサの言葉「愛の反対は無関心」でした。
 
「愛の反対は無関心」ならば、すなわち「愛」とは「関心」であると。
そして私は、自分が森羅万象に「関心」があると描きました。
更には、森羅万象を愛すれば、愛する対象から力をもらえると。
 
確かに「雑草」を愛する私は、「雑草」から「楽しみ」や「学び」をもらっています。
 
だから「愛する対象から力をもらえる」と実感する次第です。
 
しかし私は森羅万象に「関心」があるかというと、そうではないことに気づきました。
 
人にだけ「関心」が持てないのです。
人以外のことなら、どんな「情報」でも興味があります。
 
例えば飲み会の席に参加したときに、
普通なら身近な日常の話で盛り上がるでしょう。
しかし私は、そういった話にはあまり感情移入できません。
 
可能ならば、経営の話とか生物の話とか哲学の話とか、そんな話をしたいのですが、
もちろんそんな堅苦しい話をする飲み会なんて存在しないのです。
(私からしたら、「経営」「生物」「哲学」も十分ソフトな話ではあります)
 
もちろん飲み会ですから、
ある意味「他愛のない」話に花を咲かせるのが、あるべき姿です。
 
私は人に「関心」を持てないことに、何かしらの欠落を感じます。
だから私は、「人とつながれない」のです。
 
よく考えると、同じような理由でテレビのバラエティーも観ません。
芸人さん同士の「他愛のない」話を聴いていても、何も感じないのです。
テレビ自体あまり観ないのですが、
そういったバラエティが流れていたら、
ドキュメンタリーやニュースにチャンネルを変えてしまいます。
 
そっか、私が「人とつながれない」のはここに問題があったんだなぁ・・・。
 
どうしてかなと考えるに、人にアクセスすると、
「ポジティブ」だけでなく
生々しい「ネガティブ」が自分の「心」に入ってくるからなのだと思います。
そういった過去の経験則から、
現在においても人間への「関心」をシャットアウトしている自分がいるようです。
 
例えば、第三者への悪口とか、グチとか。
テレビのバラエティーを観ていても、
裏に透けて見える虚栄心とか、人に対する軽視の姿勢とか、傲慢とか。
 
「ネガティブ」を嫌う私は、人に「心」の扉を開放していません。
 
しかし・・・
 
人に「関心」を持っていなければ、人を「愛」することもなく、
人を「信」じていなければ、人から「愛」されることもなく。
 
さて、どうしたものか。
 
この答えは、上述のロジックの中で見つけることが可能です。
 
 人の「ネガティブ」に「関心」を持とう!
 
「ネガティブ」にもきちんと「意味」があるんだ!ということですね。
何かの事情があって「ネガティブ」も生まれているんだと。
 
世の中に「意味」のないものなんて存在しないというのが、
「縁」を信じる私のポリシーです。
 
今後のブログでは、人の「闇」の部分に「考察」の光を当てていくつもりです。
きっと人の「闇」の部分にも、抱きしめてあげたい何かがあると想います。