「愛」の反対は「無関心」(パート2)

「愛」の反対は「無関心」
 
マザー・テレサの有名な言葉ですが、
この言葉は、実に普遍的に使える言葉です。
 
様々な場面で、この言葉に出くわしますし、
様々な「考察」の帰結として、この言葉に辿りつきます。
 
この言葉については、ちょうど1年前の過去ブログにて「考察」済みです。
過去ブログ:「愛」の反対は「無関心」
 
今回は、私の中の「心」や「考察」の「変遷」もしくは「成長」を反映して、
もう一度このテーマに挑戦します。
 
とは言え、前回のブログ記事を読み返しましたが、
なかなかの完成度の素敵な文章です。
 
前回のブログ記事に勝てるか正直不明ですが、
まずは描き始めてみます。
 
 
「愛」の反対は「無関心」
 
私は、コミュニケーションを非常に苦手としています。
コミュニケーションをしたばかりに、
相手からの評価を落とした経験なんてざらです。
だから私は、「文章」に情熱を注ぎます。
幸い私には「文章力」という「才能」がいてくれて、
「文章」だと私のことや私の伝えたいことを十分に表現できるのです。
 
「表現」って本当に素晴らしい!
 
さてそんな私にも、唯一可能なコミュニケーションの技があります。
それが「傾聴」です。
 
相手のことを「一生懸命」に聴くこと。
そうすると不思議なことに、
楽しくて気持ちのよいコミュニケーションのムードが醸成されます。
 
このカラクリは実に単純です。
理由は、もう既に描いてあります。
上述の私と同じように、
きっと誰しもが、自分や自分の意見を知って欲しいと思っているんでしょうね。
 
相手を「知ろう」とする態度は、それすなわち相手への「関心」であり、
「愛」の反対は「無関心」という公式に照らし合わせれば、
そこには紛れもない「愛」が存在することになります。
 
私はあまり活用していませんが、
昨今新たなコミュニケーション手法として登場した
ツイッター」や「フェースブック」、「ライン」は、
まさに仲間からの「愛」を感じるためのツールなのでしょう。
「いいね!」には、「愛」が詰まっています。
「いいね!」には、
「あなたのことを観ているよ」というメッセージが込められているのです。
 
しかし、最近は疲れて「フェースブック」を止める人が出てきています。
私も前職の仕事の関係で自身の「フェースブック」を立ち上げ、
たしか60人前後の「ともだち」を作りましたが、今は全く活用していない状況です。
フェースブック」を開くのも気が重く、放置しています。
60人なんて、明らかに私のキャパオーバーです。
 
結局人数が多ければ多いほど、「フェースブック」疲れが出てきます。
すなわち、他者に向けられる「関心」は有限なのです。
言い換えれば、一人が発揮できる「愛」には限界があります。
 
だから、結婚は「一夫一婦制」なのです。
女性の価値を低く観ているイスラム諸国では別ですが、
ちゃんと人の価値を観ている国では、
「一夫一婦制」でないと、お互いに相手に向ける「愛」が足りなくなると考えます。
これは、「他者に向けられる関心」が有限であり、
すなわち一人が発揮できる「愛」が有限とだと言うことなのです。
 
これと対照的なのが、「欲」だと思います。
例えば男性の「性欲」は、
基本的に無限の人数を相手にしたいと考えているのではないでしょうか。
 
「愛」は、人を「人」として観て、
「欲」は、人を「モノ」として観ます。
 
「モノ」は不要なときには、「無視」すればいいし、「廃棄」すればいい。
「人」は「モノ」とは違い、生きているのです。
生きているから、様々な糧を必要とします。
すなわち、「人からの関心」=「愛」を必要とする訳です。
 
「人」を「モノ」として観た、悲劇の実例があります。
それが、「チャウシェスクの落とし子」です。
詳しくは過去ブログ「理解者」を見て欲しいのですが、
チャウシェスクというルーマニアの独裁者の政策により、
10万人もの孤児が、誰にも言葉もかけられずほ乳瓶に入ったスープだけで育った結果・・・
その子ども達は外部の刺激に無反応になり、
喜怒哀楽という「感情」が全く欠落してしまいました。
 
人は、パンのみに生きるにあらず
人には、やはり「愛」が必要なのです。
 
ちなみに私の
「本能・欲望(Gene)」「心・自我(Self)」「外部情報・価値観(Meme)」の
3者を使った人間解釈では、
「愛」は「心・自我(Self)」から生じ、
「欲」は「本能・欲望(Gene)」から生じます。
「愛」には、相手に関心を持とうという「意思」「意図」が必要であるのに対し、
「欲」には、背後から背中を押されて突き動かされるような操作感があるからです。
(「人間解釈の3者理論」については、過去ブログを参照下さい)
 
さて私は、「愛」は「有限」だと「考察」しました。
そうだとすれば、
俄然興味が湧くのは「愛」のキャパを増やすにはどうしたらよいかということです。
 
「愛の反対は無関心」を裏返せば、「愛」=「人への関心」となります。
そして、「人への関心」が「愛」ならば、
「相手を知ろうとすること」こそが「愛」の実践になるはずです。
 
「知る」ということは、その「情報」を得るということ。
 
つまり、より多くの「情報」を得ようとする態度こそが
「愛」のキャパを増やす取り組みなのだと考える次第です。
 
であるならば、大事なのは「好奇心」となります。
「好奇心」を磨くことこそが「愛」に満ちた「人生」を生きるコツになろうかと。
 
「愛」は別に、「人」にだけ向けるものではありません。
「愛」のキャパを磨くなら、森羅万象に「関心」を持つことが効率的で効果的です。
私は「雑草」に強い「関心」を持ち「愛」を向けることで、
「雑草」から様々な「楽しさ」や「知恵」をもらいました。
また私は、「考察」や「文章」に「愛」を向けることで、
生きていく上で大切な発見をいくつもしてきたのです。
 
あなたは今、「好奇心」をどれほどお持ちでしょうか?
例えば「雑草」のような小さな存在を、
生きる上で不要だから「関心」がないと思わないでください。
「雑草」へのそういった態度は、「人」への見方に多少なりとも反映すると考えます。
 
漫画「ドラゴン・ボール」の悟空の元気玉ではないですが、
全ての森羅万象への「関心」が、その人の「愛」のキャパを増やし、
その人の「人生」に、大きな「力」を与えるのだと考える次第です。