「普通」について「考察」しましょう

物理的にバタバタしていたのと、
いろいろなことがありまして、
しばらくブログを中断していました。
 
今週は、ちょっとヘビーでした。
生きていく上での、しがらみや悩みが重くのしかかってきました。
 
周りの人の私への評価も、下がる人は下がるでしょう。
それは、私の価値観が「普通ではない」ところから来ています。
 
ただこの「普通ではない」価値観を、
「普通」に矯正してしまったら、
私の「生まれた意味」は色あせます。
 
思い返すと、私は「普通」とはソリが合いませんでした。
「普通」には、悪い面もあります。
 
例えば私が中学生の頃、教室の掃除をする際、
掃除をさぼるのがクラスメートの「普通」でした。
そんな中、私はその「普通」をよしとせず、
一人教室の床を雑巾がけしていました。
 
中学生の私は、孤独と不安に耐えながら、
「普通ではない」ことを正しいと信じて実行していたのです。
 
大人の世界になれば、掃除の時間には雑巾がけをするのが「普通」です。
このことから、必ずしも「普通」=「正しい」ではないことがわかります。
 
人は社会で生きる以上、その時々の「普通」と対峙する訳です。
そして自分の生きる道を自分で決めるときには、
必ず「普通」と決別する勇気が問われます。
 
 「普通」からの分岐
 
これが、その人の「生まれた意味」に独自の色合いをつけていくのです。
 
もう一つ「普通」の悪い面があります。
 
それは、「同調圧力」や「異物への評価エラー」です。
周囲からの「評価」に、自身の「価値観」を委ねている人は、
「普通」というお手本に振り回され、どんどん苦しくなっていきます。
 
なぜなら、「普通の生き方」なんて幻想だからです。
全ての人に、「個性」があります。
「個性」があるのに、「普通」に生きようとしたら、
それはその人の「生まれた意味」という設計図を、
ベタで塗りつぶすことになると私は考えるのです。
せっかくの素敵な設計図なのに。
 
絵を描くことを想像して下さい。
マリリン・モンロー肖像画を描きましょうという課題が出たとき、
多くの人はなるべく似せようと奮闘するでしょう。

 
きっと、たくさんの「普通」の「模写」的な絵が提出されると思います。
 
そんな中、一人だけこんな絵を提出する人がいたら・・・

 
あなたが審査員だったとき、この絵に魅力を感じないですか?
私は、感じます。
 
どこに感じるかというと、
「普通」からの逸脱、あるいはその人の「個性」の発揮に対してです。
 
結局「普通」にこだわっていても、本当に「心」を動かすものは創れません。
 
本当に「心」動かされるのは、
その人自身の「個性」すなわち「魂」そのものを表現したときなのです。
これは、絵の話に留まりません。
もっと大事なことは、その人の「人生」自体が「作品」だということです。
 
私は、常々こう願っています。
死ぬときに、「ああ、いい人生だったなぁ」と感じて死にたい。
できれば、感極まって自らの「人生」に、感動の涙を流して死んでいければ最高です。
 
あなたは、どのくらい「普通」から逸脱していますか?
どのくらい「普通」から逸脱して、「魂」の声を聴いて生きていますか?
 
もちろん、「普通」に生きることが悪いことではないです。
暴走族のように「普通」から逸脱して、人に迷惑をかける行為はNGだと思います。
 
ただ「普通」の正体を知り、「普通」をしっかりと識別する必要があると、
私は考えるのです。
  
そうして「普通」がもたらす幻想や結果やプレッシャーを理解することで、
私やあなたの「人生」は、より感動する「作品」に仕上がるはずです。
 
私はこの一週間、「普通」のプレッシャーにつぶされそうになりました。
とても苦しかったです。
 
しかし、今回の「考察」を通じて、
胸を張って「魂」の声に従って生きていきたいと感じるようになりました。
そうして、私の生きるヴァイタリティーもレベルアップしたようです。
 
この苦しかった1週間に、心から感謝します。