「魂」を「表現」しよう!

私は、かれこれ4年半ブログを描き続けています。
描いた記事は650本以上。
1回1回の記事は、かなりの長文です。
 
私はこのブログを通じて、自分を「表現」することの楽しさや「喜び」を知りました。
それはきっと、絵を描く人や小説を書く人、映画を撮る人、の「喜び」と一緒。
 
そういう「表現」系の人たちの「喜び」を、
自分も体験することができてラッキーだと思っています。
 
自分を「表現」する。
本当に不思議なんですが、うまく自分を「表現」できたと感じるとき、
「心」に「喜び」が湧いてきます。
 
「魂」とは、本来そんなものなのでしょうか。
自分という存在を、「表現」する。
あるいは自分という存在を、発揮することを切望する存在。
 
本当に当たり前のことですが、
「魂」は一人一人違うものです。
一人一人違うからこその「魂」であり、
工業製品のように皆同じだったら、それは既に「魂」ではありません。
 
ここ、うまく「表現」できないのですが、
イメージわかりますかね?
一人一人に違いがあるからこその「魂」だと言うことを。
 
私は考えるのです。
世界は、「モノ」と「魂」に分かれる。
原子や遺伝子のような、分解すると同じ部品で創られているものが「モノ」。
生命や心のように、いくら分解しても同じところがなく個性を持つものが「魂」。
 
自分と同じ存在がいない、世界で一人の私やあなた。
これだけで、もう希少価値です。
 
一方で、一つとして同じ部分の存在しない「魂」だからこそ、
個人を区切る境を取り去ると、
他の「魂」と容易に混ざることができると私は考えます。
私の中の「魂」のイメージは、液体です。
遺伝子が構成した体というコップに、「魂」というスープが注がれました。
「死」とは、コップの損壊です。
コップが損壊すると、「魂」は海に還っていきます。
そして、海からできた雲が雨となり、再び新たなコップに注がれるのです。
 
これについては、科学的(?)な考察もしています。
ご興味がある方は、過去ブログの『「意識」を2で割ると? 「意識」を2で掛けると?』をどうぞ。
 
ま、もちろん妄想の域を出ない話ですが、私は「魂」にそういった「意味」づけをします。
「魂」は一つ一つ違い、全ての「魂」は一つであると。
 
ものごとに「意味」づけをしていくことは、「人生」において非常に重要だと思います。
なぜなら、そうすることで、自分の「生きる」意味が見えてくるからです。
 
「意味」づけをしないで生きると、だんだんと自分を見失っていきます。
もともと、説明書も用意されていない「人生」です。
昨日のブログではないですが、自分で「意味」をつけていかないと、
結局「普通」という幻想に振り回され、「普通」に呑み込まれていくと私は考えます。
 
科学で解明できるのは、同じ部品の組み合わせで構成されている「モノ」までです。
「魂」に関することは、自分で「意味」づけするしかありません。
そして科学で解明されない「魂」のサイドにこそ、
私たち個人にとって重要な情報が宿っているのです。
 
例えばあなたは、死後自分がどうなるか真剣に考えたことがありますか?
科学で答えが出ていないからって、考えることを放棄しないで下さい。
 
「死後自分がどうなるか」という「意味」づけによって、
「魂」のあり方、すなわち「人生」の生き方が変わってきます。
 
「死後、無になる」と考えている人は、
なるべく「人生」を享楽や悦楽に浸した方が得ではないでしょうか?
現に、私が最初に入った会社では、中年社員が女の子を口説くときに、
「どうせ人間死ぬんだから、楽しもう」と言っていました。
ま、それも一つの解釈。
否定するものでは、ありません。
 
一方で、「死後も何らかのものが残る」と考えている人は、
「旅の恥はかき捨て」的な生き方でなく、
永遠に繰り返す「魂」の旅に、
何かゴールがあるかもしれないと感じるのではないでしょうか?
 
そして最後に「死後」のことを、あまりよく考えていない人。
「死後」に意味づけができていなければ、
「人生」への意味づけも曖昧になっている可能性が高いと思います。
そうしたとき、本当に真剣に目の前の「人生」を生きることができるのか?
 
冒頭の話に戻りますが、絵を描く人や小説を書く人、映画を撮る人。
こういった「魂」の「表現者」の人々は、
既に「魂」サイドの意味づけを終えている人々のような気がします。
その意味づけに従って、自分を「表現」している。
 
「魂」を「表現」すること。
それは、誰も解明していない自分という存在を、一生懸命に考え、見つめ受け入れ、
そしてその存在を唄うということ。
 
ここに「魂」が「喜び」を感じる源泉があると、私は考えるのです。
 
私も、このブログで一生懸命「魂」を「表現」しています。
「表現」すればするほど、私の「人生」の「意味」が明確になり、
私はこの「人生」を自分で歩いている「意味」を噛み締めることができるのです。