「過去の記憶」を振り返る、そして解釈しなおす

時々、脳裏に蘇る「過去の記憶」ってありませんか?
 
人によっては、
それがトラウマになっている光景だったり、
「あ〜」って頭を抱えるような自分を許せない光景だったり。
 
また、意味はわからないけど、
ふと気づくと、いつの間にか想起されている光景というのもあると思います。
 
このような光景は、なぜ記憶として何度も蘇るのでしょうか?
 
私は、「感情」が大きく関与していると考えています。
すなわち、「感情」が大きく動いたときに、その記憶は脳裏に焼き付けられる。
 
そして、もう一つ理由があると思います。
それは、「心」が納得していない光景ということです。
こういう未解決の光景は、消化不良でずっと記憶として留まります。
 
こういった未消化記憶は、牛のように繰り返し反芻されて、
少しずつ「心」で消化しようとしているのです。
 
私にもそういう記憶の光景はいくつかあります。
その中の一つが、以下の記憶です。

中学2年生の私。
教室の掃除の時間。
クラスメートが皆おしゃべりしてサボっているのを尻目に、
学級委員長の私は一人で教室の床を掃除している。

私は気づくと、この時の孤独な光景を思い返しています。
 
上記の光景は、私の「心」の中で納得していません。
だから、何度も「心」の議題として上がってくるのです。
 
私は、そろそろこの光景に決着をつけようと思います。
 
まずは、その時の心境の再現からです。
 
私は、掃除をサボるクラスメートに怒りを感じていました。
真面目に掃除をしないクラスメートにむかついたから、
くそ真面目に一人で掃除をしたのです。
 
「何なんだ?あいつら!」
「ちゃんと、掃除しろよ!」
 
おしゃべりに花を咲かせるクラスメート達に背を向けて一人で黙々と掃除をすることで、
私はクラスメートを見下していました。
なぜ見下そうとしたのかというと、集団から孤立する自分に価値を感じられず、
卑屈になっていたからです。
私はその小さな自分を覆い隠すために、クラスメートを見下していました。
 
私にとって掃除は、見下す手段に過ぎなかったのです。
クラスメートや先生が綺麗な教室を使うことを願って、掃除した訳ではありません。
 
本来の掃除とは、そこを利用する人が気分良く利用できるために、
行うものです。
もしくは学びの場として使わせてもらっている教室に
感謝の意を込めて行うものだと考えます。
 
しかし、そういった掃除の本質とは全く異なる自己都合の活動を、私はしていたのです。
 
そこに思いが至ったとき、
現在行っている仕事にも同様のことをしている時があると、私は気づきました。
 
仕事は何のためにあるのか?
 
お金のためだけでは、ありません。
 
誰かに貢献するために。
何かに感謝するために。
 
 
・・・私は、記憶の中の中学生の私に伝えたいと想います。
 
君が雑巾がけをしてくれるお陰で、皆が綺麗な教室で授業を受けられるんだよ。
どうも、ありがとう。