「精神論」という邪悪

はっきり言います。
他者に振りかざす「精神論」は、その「人」にとって「害悪」です。
自分に「精神論」を使うのは、
自分を使った試行錯誤だから得るものもあると思います。
 
しかし自分に使うならともかく、
他者に「精神論」を説くことはとても無責任な行為です。
 
具体例は、いくらでもあります。
(1)神風特攻隊の作戦を立てた軍部
(2)イスラム原理主義者達の自爆テロ
(3)部員達に水を飲むことを禁じた昔の体育会系部活動
 
繰り返しますが、「精神論」を自分に使うのならいいんです。
ですから、神風特攻隊で命を散らした若者を云々言うつもりは毛頭ありません。
監督の言うことを信じて水を飲まずに練習する若者は、私にとって尊敬の対象です。
ただし、その若者が脱水症状で倒れないか心配はします。
 
イスラム原理主義者の自爆テロについてはどうか?
パレスチナの18歳の女子高生がイスラエル自爆テロを決行し、
同い年のイスラエルの女子高生が命を落とすという事件がありました。
あるいはロシアでは、チェチェン紛争に起因する自爆テロが何件も発生しているのです。
やっていることは、何の責任もない一般人を無差別に殺傷することであり、
誠に愚かで許されざることだと思います。
しかし一方で、その人が命を捧げた背景を十分に知りたいとも私は考えるのです。
 
911」のように、3,000人近くの人が犠牲となった自爆テロもあります。
あの動機は、
イスラエルパレスチナ侵攻に端を発する宗教的対立を背景にしているのでしょうか。
 
いずれにしてもこの件は、本当に愚かで許されない行為だと考えます。
イスラム教では、自爆テロを実行した殉教者は天国に行けるのだそうです。
その天国では、72人の永遠の処女が性的な相手をするとコーランに書かれています。
イスラム教らしい男尊女卑の激しい天国ですね。
このような天国での物質的快楽の描写が自爆テロを推し進める原動力となっているという
指摘もあります。
実際に過激派組織が自爆テロの人員を募集する際に
このような天国の描写を用いている場合が少なくないとされ、問題となっているようです。
(詳しくは、ウィキペディアをどうぞ)
 
さて「精神論」に話を戻します。
 
「精神論」とは、相手の資質や価値観を無視したその人の「モノ化」だと、
私は考える次第です。
「精神論」は、人を同じ型で作られたモノとして捉え、
その人の個性や「やりたいこと」を無視します。
「精神論」が高圧的なのは、その人を無視しているからです。
 
「つべこべ言わずにやれ」
これが、「精神論」に潜んでいる傲慢さです。
 
「俺が体験して、よいと思った方法なんだよ。だから、おまえもやれ。」
これは、結局自分のことしか観ていません。
相手のことを観ようとすれば、
自ずと「相手の強み弱み」や「やりたいこと」にも関心がいくはずです。
「精神論」は、思考停止の結果であり、相手に無関心な愛の不在の結果でもあります。
結局自分にしか興味がない人が、「精神論」を唱えるのです。
 
人は「外部価値観」の影響を大きく受けます。
一部の過激な宗教もそうですが、
人の心身を損なう邪悪な外部価値観も存在する訳です。
無差別に入ってくる「外部価値観」からは、自分で自分を護るしかありません。
 
「精神論」も、邪悪な価値観の一つです。
相手の「成長」や「幸せ」を願っているように見せかけ、
相手の「痛み」などお構いなしに、
「やれよ」と相手の背中を後ろから蹴る行為と、実質的に同義だと私は考えます。
本当に自分を成長させたいなら、自分のことは自分で知ることが必要です。
それを外部の人が補助することは、もちろんできます。
それが、「コーチング」です。
 
今でも「精神論」は、横行しています。
 
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」
自分を本気で成長させたいなら、自分のことは自分で知るべきです。
己の不在な「精神論」に、騙されてはいけません。