「自己愛」でプライベートを「努力」する

私は、仕事で「努力」できますが、
プライベートの時間での「努力」が、とても苦手です。
 
しかし、プライベートの時間で「努力」ができないと、
「人生」は、仕事のためだけにあるような感じになってしまいます。
 
仕事での「努力」は、誰かのため。
そして、プライベートでの「努力」は、自分のためです。
 
結局、プライベートで「努力」できないのは、
自分のことを大切にできないからだと考えます。
 
つまり「自己愛」です。
これがないと、プライベートの時間は何のために生きているかわからなくなります。
 
そして、惰性に時間を使ってしまう訳です。
 
この傾向は、日本社会に強く出るような気がします。
学校で教えてくれるのは、組織や公のための「努力」だけです。
自分のために「努力」する方法や、「自己愛」の育み方を教えてくれません。
もちろん、組織や公のために「努力」する意識も重要です。
私達は社会的な生き物ですから、それができないと生きていけません。
 
しかし、プライベートの「努力」については、
自分でその必要性に気づかないと、誰も教えてくれない訳です。
 
プライベートという言葉がカタカナであることに、日本社会の特性がよく表れています。
結局、プライベートに代わる日本語がないんですね。
 
「私事」という日本語はありますが、
この「私事」ってなんとなく後ろめたい語感を感じませんか?
 
日本では、「社会」>「私事」という暗黙の価値観が共有されている訳です。
 
しかし、「社会」への貢献だけで生きてきたら、
様々な弊害を生むことは間違いありません。
 
人が「幸せ」を感じるためには、
プライベートの時間を「自分」のためにどれだけ使えるかが重要であると考えるのです。
 
組織への「愛」の他に、自分への「愛」を持って、
組織のために働くのと同じように、自分のために働けるように。
 
「自己愛」の欠如による苦しみを、私は今経験中です。
 
私が「人生」に溺れて苦しんでいるとき、
いつもこのブログを描くことで立ち直ってきました。
 
それは何故かと考えたら、このブログを描くことが自分のためだったからです。
そこに「自己愛」がありました。
 
苦しい中でこのブログを描こうと決意するとき、
私の中のなけなしの「自己愛」が「ON」になり、
そこでようやく空虚な「心」に「生きる力」が湧いてくる訳です。
 
そこに気づいたので、
私は「プライベート」を自分のために「努力」しようと考えます。
 
自分の「自己愛」形成のために。
 
「プライベート」で「努力」することの意味が、ようやくわかってきました。