「真面目系クズ」

「真面目系クズ」という言葉をご存じでしょうか?
ネット上で、ダメな人間の一系統として語られています。
検索してみて下さい。
たくさんのヒットが、あります。
ネット上では、十分に市民権を得ている言葉です。
 
どのようなタイプかと言うと、以下のようなタイプになります。

一見すると真面目なのに実は中身がクズな人のこと。
自ら主体的にがんばったり努力することはないが、
先生や親の言うことをきくので周りからの評判は良い。
反抗しないのは楽な方へと流されれいるだけで、
ルールを外れる勇気もない。
周りに迷惑をかけないように真面目に生きてきたが、
積極的に努力することは無い。
最初の印象はよく、周囲から期待されるが、だんだんボロが出て人が離れていく。

 
人は、何らかのタイプに分類されると安心するものです。
私は、ネット上での解説を読んで、「ああ、自分のことだなぁ」と感じました。
そして、
「そっか、自分以外にも同じ悩みを持っている人がいるんだな」と少し安心したものです。
 
ただこの説明によると、「真面目」なのは、「楽な方に流されているから」とあります。
 
その部分については、「そうかな?」と思うのです。
 
「反抗しない」ことが、
「真面目系クズ」の人にとって「楽」なことだと説明されていますが、
それは、相手を尊重する気持ちがあるから「反抗する」ことが苦しいのだと思います。
 
相手を尊重する気持ちがなければ、
それこそ幼児のように自分の「我」のままに
相手を攻撃したりバカにする方が「楽」でしょう。
 
実際、中学時代、多くのクラスメートが先生をバカにしているムードがありました。
それは、本当に幼児のように何も考えず先生をバカにする生徒と、
その流れに迎合している生徒が組み合わさった結果です。
 
そういうムードが醸成されているとき、
考えなしに先生をバカにする方が、実は「楽」だったんじゃないかなと思います。
 
ですが、自分は先生をバカにする気持ちになりませんでした。
それは、先生をバカにする根拠がなかったからだと思います。
 
周りに流されず、自分の「理」をある程度確立している。
これが、「真面目系クズ」のもう一つの側面であるように感じます。
 
盲目的に従うものでもありませんが、
組織や社会のルールには「理」があることも確かです。
幼児のような「我」から来る「反抗」程度では、
既存ルールの「理」を覆す程の「理」を生み出すことは困難だと思います。
 
組織や社会のルールに従っていた方が、全体的にうまく回る。
「真面目」な人達には、
そういった俯瞰的な視点が備わっているのではないでしょうか。
 
ただ「わかることができる」能力と、「行動できる」能力は別物です。
「真面目系クズ」の人は、「わかることができる」けど、
「行動できる」能力には恵まれなかったのかなと考えます。
 
全体を俯瞰的に理解できるのに「行動できない」。
「行動できない」ことが、全体に与える影響や全体から加わる影響は理解できる。
 
わかっているのに、動けない自分を痛感するので、
自分へのダメ出しが、人より強烈なものになってしまう訳です。
脳天気ではいられないので、真剣に悩みます。
 
ですので「真面目系クズ」は、生きるのが本当に苦しいのです。
 
パラリンピック創始者のルートヴィヒ・グッドマンは、
「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ。」という言葉を残しています。
 
「真面目系クズ」の人は、「真面目」を最大限に生かすべきでしょう。
 
「真面目」は決して、「楽」を求めた結果ではありません。
全体を俯瞰して「理」を介するからこそ、周囲に流されず「真面目」になれるのです。