「仏教」では、「人生」も「ゲーム」である。

Kindle電子書籍で、
「だから仏教は面白い!」(魚川祐司著)を読んでいます。
 
仏教のエッセンスがとてもわかりやすく書かれており、
大変興味深いです。
 
その中で「そっか、これが仏教が示す生き方か」と納得した部分があり、
今日はその部分について、紹介したいと思います。
 
仏教は、哲学です。
「なぜ、世界は苦しみに満ちているのか?」
仏教はこの疑問から始まり、そして人々が「幸せ」になる道を模索します。
 
「四苦八苦」という言葉があるとおり、
どんな金持ちであれ、どんな魅力的な人であれ、
人々は老いるし、病気になるし、最後には死ぬ訳です。
それに、愛する者と別れたり、憎い相手に出会ったり、求めても得られなかったり、
この「人生」には、「不快」の要素が散りばめられています。
 
「快」と「不快」。
これが、生命の行動原理です。
どの生命も、このスイッチで動きます。
例えば、昆虫は光の方向に「快」を感じ、そこに向かって移動する訳です。
この行動原理を「本能」と言います。
 
ある意味、
「生命」は誰が決めたかわからないこの「快」「不快」という命令言語で、
行動をコントロールされているのです。
 
人間とて、例外ではありません。
イメージは、馬の目の前にぶら下げられたニンジンです。
賢い人間も、そのニンジンがなぜ自分の前にぶら下げられているかあまり深く考えず、
そのニンジンを追って、努力もしくは苦労します。
 
しかし、そのニンジンは、追いついても追いついても、
更に新たなニンジンが現れるようになっている訳です。
私はそこに「本能」という生命コントロール装置の底意地の悪さを感じます。
 
その追加のニンジンは、例えば他者と比較することで現れるようです。
 
努力してニンジンAに辿りついても、
他の人がより大きなニンジンBを持っているのを見たとき、
更にニンジンBを追う努力をするか、そこで留まるか決断します。
そこで留まる決断をしたとしても、
ニンジンBや更にニンジンCを持っている人達のことが視界に入り、
持っていないことに劣等感を感じ続けなければならない訳です。
 
このように考えていくと、目の前のニンジンを愛する生活は、
「自己愛」が生まれる土壌ではありません。
本来自分を愛すれば、一発で「幸せ」なのに、
「本能」は、自分よりも目の前のニンジンを愛せよと、私達に命令しているのです。
 
電子書籍「だから仏教は面白い!」では、
「人生」をゲームに例えて、話をしています。
 
 
「ゲームに生産性はない」
このことに、同意して頂ける人は多いと思います。
それでも、人々はゲームに自分の時間やエネルギーを投入する訳ですが。
 
例えば、ドラゴンクエストのようなロールプレイングゲームで考えてみましょう。
 
ロールプレイングゲームを進めていく上での「快」の一つは、
自分のキャラクターがレベルアップしていくことです。
 
レベルアップすると、
何かしらの能力が上がり、倒せる敵や行動範囲が広くなっていきます。
 
しかしゲームから離れて、その費やした時間のことを考えると空しくなる訳です。
 
それは、ゲーム会社が用意した「快」「不快」のコントロールに、
自分がまんまと乗せられてしまったことを意味します。
はたして人間は、ゲームで「幸せ」になることができるのでしょうか?
 
最近は、オンラインゲームという更に進化した形態のゲームがあります。
これなんかは、より「人生」の巧妙なところを取り入れている訳です。
 
オンラインゲームでは、他の参加者とネットを通じて一緒にプレイできるので、
他者比較が可能になります。
そうすると、より人間の「本能」とマッチして、
他者よりも強くなろうという人が出てきて、
ネトゲ廃人」というゲームに人生のほとんどの時間を費やす人種も出てくる訳です。
 
現実世界に生きる人にとって、
ネトゲ廃人」は嘲笑の対象かもしれませんが、
このことは「人生」における教訓を与えてくれると、私は考えます。
 
それは、この「人生」で何が「目の前にぶら下がったニンジン」かということです。
 
自己顕示欲や劣等感、人と比較する類のものは「ニンジン」であり、
それをいくら追ったところで「幸せ」には到達できない。
また、そもそも「快」を追うことが、どれだけ不毛なことか。
「快」の先には、ゴールは設定されていません。
 
結局、「本能」が用意した不毛なゲームに参加するな!というのが、
仏教の重要な教えだと、私は考察する次第です。
 
じゃあ、どうしたら「幸せ」になれるのか?
この答えを探求できるのが、人間の役得です。
 
私達には、言葉があり、知恵があり、理性があります。
私達人間は、「本能」以外の行動原理を自ら「考察」し生み出すことができるのです。
 
私はともかく、まずは「本能」がもたらす「不快」を否定します。
他者比較で劣った状態の今の自分を受け入れて、
そしてありのままの自分を愛そうと想うのです。
 
よく考えたら、こんな自分でも、今までよく頑張ってきました。
こんなに一生懸命頑張ってきた自分を嫌って、
罵声を浴びせていたなんて、人としてあり得ない行為です。
 
「本能」は、
「この役立たず、せめて他の人と同じラインまで行けよ」と無責任にがなりたてます。
 
しかしここで、「自分」を強く持つのです。
ちゃんと「理性」で考えれば、
「いや、そっちに幸せはないね」とクールに反論できるはず。
 
「幸せ」に、一直線。
私は、今の自分を認めます。
 
「本能」のもたらすゲームも割と面白かったですが、
永遠にやるものではないのです。
そろそろ、ゲーム疲れしてきました。
 
「快」「不快」のゲームは卒業して、
そろそろ本当に自分のために「人生」を使っていこうと想います。