「特別」でないけど、「特別」な自分

人が「組織」や「社会」の中で生き始めるとき、
それは自分が「特別」でないことを知るための期間となります。
井の中の蛙」だった子どもが、
「社会」という大海に出て、自分が「One of them」ということを知る訳です。
それどころか、様々なところに蛙の王様がいて、
自分がとても弱い存在であることに気づかされます。
 
しかし併せて、人が「組織」や「社会」の中で生きるということは、
自分が「特別」な存在だと気づくステージでもある訳です。
 
それは、痛みによって。
 
井戸から出た蛙が大海に出ると、彼の「心」は荒波に揉まれて満身創痍になります。
 
「そっか、自分は全然特別じゃないんだ」という気づきと共に、
「この弱い自分を、自分で守らないといけない」という危機意識が芽生える訳です。
その自分への「特別」意識を持てないと、蛙は大海で溺れてしまいます。
 
ここで大事なのは、順番です。
(ステップ1)まず自分が「特別」ではないことを、十分に理解することが必要となります。
(ステップ2)その上で、それでも自分が「特別」な存在であることに想いを馳せるのです。
 
もともと人は、
自分が赤ん坊として生まれたときに自分が「特別」だと認識しています。
しかし、そのフワフワした根拠のない「特別」感を持ったままでは、
人は「組織」や「社会」では生きていけないのです。
 
自分は「特別」ではない。
 
ここに気づけないと、仕事等で皆と協力して生きていくことはできない訳です。
 
しかし、自分のことを「特別」でない存在であると認識したままでいると、
大やけどをしてしまいます。
 
自分を「特別」に護る者がいなくなるからです。
自分を、全ての他者の評価の中にさらすとどうなるか?
もちろん自分のことを観た正当な評価も多くありますが、
世の中には、無責任な自己都合の短絡的な評価というのも数多く存在します。
時には、悪意ある評価もあるでしょう。
 
それら全てに耳を貸していては、「心」は壊れます。
ここは過保護でも、必要なときには自分の耳を塞いでくれる存在が必須なのです。
「大丈夫。自分は、ちゃんとやっている。頑張っている。」
 
しかしその役目は、一生を誓い合ったパートナーでも無理なことです。
結局自分が、自分を「特別」な存在として、エコヒイキする必要があります。
 
そして人は、「社会」から受ける痛みの中で、
自分以外の人も自分と同様に「特別」な存在だと理解するようになる訳です。
 
この痛みから学んだステップ2の「特別」を別の言葉で表現すると、
「優しさ」になります。
 
私はこの「人生」で、「優しさ」を信奉する者です。
痛みを味わえば味わうほど、「優しさ」こそが世界で一番大切な宝だと確信します。
 
世の中には、私達を魅了する素晴らしいものがたくさんありますが、
そこに「優しさ」がなければ、それはキラキラするだけの偽物だと私は考える次第です。