「イジメ」の原因は、イジメられた側に

今も昔も、日本ではイジメによる自殺のニュースが後を絶ちません。
 
しかしニュースになるのは、中学生以下の自殺というレアな場合のみです。
 
中学生以下で自殺する事例は氷山の一角ですから、
日本全国で全世代的に行われているイジメというのは、
日常的に膨大な数繰り広げられていると感じます。
 
そう考えると、
この日本では誰がイジメの対象者になってもおかしくない訳です。
以前はイジメていた側が、
組織が変わったら逆にイジメられる立場になってしまったという話もよく聴きます。
 
イジメられる側というのは受動的なものですから、誰でもその対象になり得るのです。
 
一方で、イジメる側になれるのは、その意思を持つ者だけとなります。
ある特定の人格的特徴を有している者のみが、
イジメる側になれるのです。
 
私は、イジメ発生の構図をこう捉えます。
 
(1)イジメの原因は、イジメられる側が提供する。
   このイジメの原因を「イラッ」と呼ぶことにします。
(2)誰しもが「イラッ」を感じるのですが、
   通常、この「イラッ」と対立するような形で「良心」や「優しさ」が火消しに動く。
   しかし、この「イラッ」に対して、「優しさ」が負けてしまうと、
   その人は「イラッ」に操られて、イジメを企図する訳です。
(3)併せてイジメる側には、「粘着性」という資質が必要になります。
   この「イラッ」が「心」の中でいつまでも消化されないのです。
 
私も、社会人になってイジメにあいました。
振り返って考えると、その原因は私が起こしていたんだなと理解している次第です。
 
私は、未熟でありました。そして、不器用でもありました。
自分が原因でイジメにあいましたが、
その代償は、地獄の苦しみと、
会社を退職するという私の「人生」のコースが大きく変わるものでした。
 
得た資産もあります。
それは、「優しさ」こそが「人生」で最大の宝物であると気づいたこと。
 
私も、「イラッ」を感じることはあります。
そしてそれ以上に、人に「イラッ」を感じさせてしまっています。
 
しかしこのことは、多かれ少なかれ誰でもやっていることです。
問題は、この日常茶飯事の「イラッ」に、どう対峙していくか?
 
日々の「イラッ」との対峙が、私やあなたという「人間」をかたち創っていきます。
そして人との「縁」にも影響するので、「人生」の様相も決まってくるのです。
 
私もたまに「イラッ」に負けて、相手に苦情を言うこともありますが、
それ以上相手にダメージを与えに行こうとは思いません。
 
「イラッ」に操られたままだと、
意味のない「苦しみ」がこの世界に生まれるからです。