「委ねる」ことの難しさ

以前、会社の研修で、
台の上から後ろに背中向けで倒れて落ちるという体験をしました。
しかし台の下には職場のメンバーが10人くらいいて、
それぞれの腕を組んでネットのようにしているので、
背中向けで倒れ込んでも、メンバーが支えてくれるので大丈夫という仕組みです。
 
しかしそれがわかっていても、背筋を伸ばして綺麗に落ちることは難しいです。
この研修では、メンバーに自分を「委ねる」ことが必要となります。
 
私は、うまくできませんでした。
落ちるとき、腰が引けた状態になってしまいました。
 
他の人はうまくできている人も多かったので、
自分に何か問題があるんだろうな・・と考えていた次第です。
 
しかし、その自分の問題を深く考えていくと、
自分の資質だけでなく、
体験してきた「人生」にも大きく影響されるような気がしてきました。
 
つまりは、過去において他者から酷い目にあっているかいないかということです。
他者から、愛情をちゃんと受けているかどうかということにもなります。
 
他者を、愛情の発信者と捉えるか?
他者を、悪意の発信者と捉えるか?
 
私は過去にイジメにあって、人間の裏目の部分を体験してしまいました。
その体験が、今の自分の価値観にも大きく影響してしまっているんだなって感じるのです。
 
他者に、悪意の発信者という面を見てしまうと、
他者を信じて背中を預けることが、怖くなってしまいます。
 
じゃあ、悪意を体験せずに愛情だけ信じられる人間が正解かというと、
私はそれもアンバランスだと想うのです。
 
「愛情」と「悪意」の両方を知ることで、本当の人との関わりができるような気がします。
 
「悪意」とは、本当に恐ろしいものです。
願わくば私は「悪意」を人に向けない人間になりたい。
 
「悪意」とは、熱く焼けた焼きゴテ。
そんなものを、振り回してはいけない。
 
それとも、人からの「悪意」も、
自分の至らなさの結果としてしっかり受け入れるべきなのか?
 
過去の体験から妄想される焼きゴテの上にも、身を投げ出す覚悟があれば、
背筋を伸ばして綺麗に倒れ込むことができるのでしょうか?
 
今更、人は「愛情」だけの存在だと信じることもできず、
私は「愛情」と「悪意」の両方共が人の正体なのだと考えています。
 
「愛情」だけを信じるお花畑では、
真に人と「つながり」をつくることが、きっと困難です。
 
人と「つながり」を持つとは、
その人の裏目も受け入れる覚悟が必要な、真剣勝負なのかなと想います。
 
想像してみて下さい。
自分の「おもて目」だけを気に入って、自分を好いてくれる人を。
その人と本当の「つながり」があると思いますか?
 
自分の裏目も、過去の体験から形成された自分そのものなのです。
 
相手の裏目にも愛おしさを感じられるような、
そんな人間になれたらすごいなぁと、私は憧れます。