「幸せ」を常に考えながら生きる

「自分はどうしたらよいのか?」
「自分はこの先どう生きたらよいのか?」
 
こうしたことに、ここ数ヶ月悩んできました。
 
自分以外の人にも、相談したりしました。
 
「すごいな」と感心するような答えを持っている方ばかりでした。
 
何度も描いてきていることですが、
人は、気づいたらこの世界にいます。
それだけでも「???」ですが、
それに加えて説明書も何も用意されていないのです。
 
ドラクエのようなゲームであれば、
「このゲームの目的は、あなたが魔王を倒すことです」と説明書に書かれています。
ですので、そのための行動を採ることが正解だとわかる訳です。
 
しかし繰り返しになりますが、「人生」に説明書はありません。
 
「人生」の目的は、何でしょうか?
 
金持ちになることですか?
立派なステータスを得ることですか?
家族や子孫をつくることですか?
 
家族や子孫をつくることは、
それらしい立派な答えですが、
公式な答えという訳ではありません。
 
もうこれは、個々で選ぶしかないと想うのです。
 
あえて言うなら、皆「幸せ」になるために日々を生きるのだと想います。
 
「幸せ」になるために、
ある人は「金持ち」を目指し、
ある人は配偶者や子どもとの時間を大切にする訳です。
 
しかし、目的と手段が逆転することが、ままあります。
「金持ち」になったが、「不幸」である人。
せっかく配偶者や子どもに恵まれたのに、「不幸」である人。
 
あくまで生きる上で見上げる目線は、「幸せ」に向けられるべきです。
その大目的を離れて手段にばかり心が奪われると、
「何のために生きているのか」わからなくなってしまいます。
 
今現在、私には配偶者や子どもはいないです。
しかし、だから「幸せ」になれない訳ではありません。
「幸せ」に向かう橋が崩れ落ちた訳ではないのです。
 
手段の維持には、時間やエネルギーを投入する必要があります。
その時間やエネルギーを投資したリターンとして、
本来は「幸せ」があるべきなのです。
 
日々の時間やエネルギーを投資して、それでも「幸せ」を得られる見込が薄いなら、
その投資は、目的と手段が逆転している可能性があります。
 
もちろん「心」を成長させるために必要な「苦労」というものもありますが、
ある程度の収穫を得られたら、
その「苦労」に長居する必要もないかもしれないのです。
違う手段を模索して、成長した「心」も活かして、
自分のための「幸せ」を追うことを目指すのがよいのだと感じます。 
 
ただ、ここまで描いてきて何なのですが、
「幸せ」というものは、本当によくわからないものです。
 
私は「幸せ」とは「優し」くなることではないかと想像していますが、
こればかりは、各人が本当に熟考する必要があると思います。
 
もし「優しさ」が「幸せ」ならば、
自分がお腹を空かしても、誰かを助けることができるなら、
「心」は「幸せ」です。
 
昔話の「笠地蔵」では、
おじいさんがお地蔵様に笠をかぶせてあげた時点で、
おじいさんの「心」は「幸せ」になっていたと思います。
後で、お地蔵様が恩返しに物品を持ってきてくれる下りは蛇足です。
 
まあ、私はそんな風に考えているのですが、
公式の説明書がない以上、
各人がそれぞれにとっての「幸せ」を考えていく必要があると思います。
 
ある程度の「これが自分にとっての幸せだ」という「答え」を見つけたら、
手段は柔軟に大胆に変更していくことも必要かも知れません。
「人生」は、短いのですから。
 
冒頭の質問。
「自分はどうしたらよいのか?」
「自分はこの先どう生きたらよいのか?」
 
自分にとっての「幸せ」を見つけると、この答えは出てきます。
ですから人は、
自分にとっての「幸せ」とは何か?ということを、
常に真剣に自問自答する必要があるのだと想う次第です。
 
そこが定まらないと、全ての「人生」の悩みに答えが出ません。
それは、どんなに人に聴いたってわからないことです。
全ては、自分の「幸せ」が判断の大前提なのですから。