「知る」は「優しさ」

バイアス、偏見、フィルター。
 
どれも、あまりよい言葉ではありません。
偏見を持った人にとっても、偏見を持たれた人にとっても、お互いに不幸なことです。
 
アフリカのギニアの村で、
予防対策を周知するため政府が派遣した保健当局職員ら7人が、
怒った住民たちに襲われた後、遺体で発見されました。
ギニアでは多くの人が、エボラ出血熱の流行は意図的なものだとか、
アフリカ人を医療機関に集めて血液を採取したり臓器を摘出したりするための方策だといった
陰謀論を信じており、国内外の医療関係者はその一味だとみなされているとのことです。
ニュース引用元
 
保健当局職員を襲ったギニアの村人達も、
真実を知ったらきっと深く後悔すると思います。
 
「知る」ことは、とても重要です。
しかし「知る」ことには、労力が要ります。
 
それでもあえて目の前の人のことを「知ろう」とすることは、
「優しさ」だと私は考えるのです。
 
とは言え、私も人を「決めつけ」てしまいます。
それどころか、自分のことも「決めつけ」てしまって、
自分自身を縛りつけ苦しめているのが現状です。
 
「優しさ」のスタートは、「知る」ことだと私は考えます。
対象に「興味」がない状態では、そこに「優しさ」は生起し得ないはずです。
 
例えば道ばたの雑草に対しても、
調べて名前や生き方が判明すると、
その雑草に「心」の中で語りかけたりするようになります。
その雑草のことを「知る」前は、そんなに「心」に留めることもありませんでした。
 
人々は皆、「興味」を持ってもらおうと、「知って」もらおうと、躍起になります。
小さな子どもを見て下さい。
お母さんや周りの大人に「興味」を持ってもらおうと、いろんなことをしますよね?
 
大人だって、一緒です。
人々は、何故有名人に憧れるのか?
人々は、人を笑わすユーモアを何故持ちたいと願うのか?
人々は、自分語りを何故好むのか?
 
そしてこのブログも、人々からの「興味」を求めて、私は描いているのだと思います。
 
人々に「興味」を持ってもらおうとすることは、
別に悪いことではないと思う次第です。
「興味」を持ってもらおうと願うのは、人との「つながり」を願ってのこと。
生命として、とても健全な欲求です。
 
しかしもちろん、無理強いは禁物だと思います。
「北風と太陽」の話と一緒で、余計「無視」されるのがオチです。
 
そうではなくて、「興味」を持ってもらう努力をすることが重要なのかなと。
つまり、「表現」を磨くことです。
ある人は、「気さく」な性格を武器に。
ある人は、「ユーモア」のセンスを武器に。
ある人は、芸術的活動を拠り所に。
 
社会生活を営む人々の隠されたミッションとして、
自分なりの方法で「表現」を磨くと言うことがあると考えます。
 
人は、人からの「興味」を望む限り、
知らず知らすに自分を「表現」する方法を模索し伸ばしていく存在です。
 
私自身もっと人と「つながり」たいので、
これからの「人生」もっともっと「表現」を磨いていきたいと想います。
 
それは、このブログに関わらず、日常生活での「表現」においても。
 
そして「表現」には「優しさ」が必要だと、私は考えます。
すなわち相手の立場に立たなければ、優れた「表現」など成立しないのです。
 
私は、口べたで、周りの楽しいノリに乗ることもできません。
しかし、「優しい表現」を意識して磨いていけば、
人々に「興味」を持ってもらうことはできるかもしれないなと想う次第です。