「過程」に「誇り」を、「結果」に「責任」を。

何があれば、この「世界」を生きていけるのか?
 
私は、「誇り」と「優しさ」だと想います。
 
何に対して「誇り」を持つのかと言うと、
自分のやっていることに対してです。
 
一生の中で一番多くやっていることは「仕事」ですから、
自分の仕事に「誇り」を持てないと、
それは辛い「人生」になると思います。
 
実際私は、自分の仕事に「誇り」を持つことができていませんでした。
そうした時、私はとても「苦しさ」を感じました。
 
自分の仕事に「誇り」を持っていないということは、
自分のやっていることを、他の人に「評価しろ」という甘えた姿勢の表れです。
 
社会人になった私達にとって、
親のように無制限に「よい」評価を与えてくれる存在は、既にいません。
 
「結果」に対しては、周囲から普通に遠慮なく「ダメ出し」も行われるのです。
 
もちろん社会人になった以上、
周囲からの「ダメ出し」を真摯に受け止める必要があります。
「結果」は、他者が「評価」するものですから。
 
しかし私は、「過程」は自分で「評価」するものだと考えます。
なぜなら全ての「過程」をわかっているのは、他者でなく自分ですから。
 
「過程」を「評価」する上で大切なことは、
「誠実にベストを尽くしたか?」ということだと思います。
自分で「評価」するからって、決して甘い「評価」はしないのです。
それこそ、他者よりも厳しい視点で自分を「評価」します。
自分の「過程」を「評価」できる存在は、唯一自分だけなのですから。
自分自身には、偽りも誤魔化しもききません。
自分に「愛」を持つなら、
地獄の閻魔大王のように自分の「やったこと」を評価するのです。
 
洋の東西を問わず、
宗教では死後自分の「過程」や「人生」を裁いてくれる存在がいます。
仏教の閻魔大王や、エジプトのアヌビス、キリスト教等のミカエル。
超常的な力を持つ彼らは、
ご丁寧に自分の「人生(過程)」を正しく判断してくれます。
閻魔大王は閻魔帳で、アヌビスやミカエルは天秤を使って。
 
でも、そんなドラえもんのような便利な機能に期待するのは、
人間の甘えだと思います。
 
そもそも自分のしてきたことは、自分がよくわかっているはずです。
自分の「過程」の「評価」は、
自分の責任において自分がやるしかないのだと考えます。
 
そして自分の「過程」に対して甘い「評価」をしないことこそが、
自分の「過程」への「誇り」につながる訳です。
 
最近、旭化成建材のマンション傾斜問題が報じられています。
彼らは、自ら「誇り」を持てるような「過程」を選択しませんでした。
「誇り」ある「過程」を選択しなかった人に、「結果」への「責任」は採れません。
誤魔化しや甘えがあった中で生まれるのは、
「不運感」や「被害者意識」ぐらいのものです。
 
まあ私も、旭化成建材の仕事を批判できるような立派な仕事をできていた訳ではありません。
「仕事」の「過程」に、甘えや誤魔化しも入っていたのです。
 
今までの私は、
「過程」を軽く考えて「評価」せず、
「結果」に「期待」だけをしていました。
 
そんな態度なのに、自分の「結果」が無視されると傷つき、
自分よりも華やかな「結果」を出す同僚に心中複雑な気持ちになったりしたのです。
 
確かに私には、職場で華やかに活躍されている同僚のような、すごい仕事はできません。
しかし、今の自分にできる仕事があるのも事実です。
 
粘り強く誠実に、その仕事の「過程」にベストを尽くせば、
そこに「誇り」が生まれます。
そして自分の「過程」から偽りや誤魔化しを排除する姿勢は、
自分への「信頼」に直結するのです。
 
自分の「過程」への「誇り」があれば、
他者からの「結果」への「評価」も真っ直ぐに受け止められます。
 
私が今まで苦しんできたのは、
他者からの「評価」を真っ直ぐに受け止められなかったからなのです。
 
まず、「過程」と「結果」を切り分けましょう。
 
「過程」の「評価」は自分で行い。
「結果」の「評価」は他者に委ねる。
 
そして「過程」に「誇り」を。
「結果」には「責任」を。
 
上記の意識を持たなければ、
「不運感」や「被害者意識」の中から抜け出すことはできません。
経験者の私から言わせてもらうと、
「不運感」や「被害者意識」の中にある「人生」は、とてもとても辛いものです。