「オズの魔法使い」vs「幸せの青い鳥」

オズの魔法使い」が映画化されたのは、1939年のことです。
この映画はアメリカのMGMによって製作され、
1939年のアカデミー賞では主役のジュディ・ガーランドが特別賞を受賞しました。
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MGMの「オズの魔法使」の成功への対抗策として、
翌年に20世紀フォックスが大スターの子役シャーリー・テンプルを主演させて、
映画「青い鳥」をリリースしました。
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オズの魔法使い」と「幸せの青い鳥」
両方とも、子どもが主役の物語です。
またどちらの作品でも、主役達は何かを求めて未知の世界を冒険します。
そしてエンディングでは、道中を通じて成長した彼らの姿が見られる訳です。
 
私も、ずっとずっと「幸せ」を求めて彷徨ってきました。
どこかに「エメラルドの都」はないものかと。
 
まだまだ「エメラルドの都」には到達しませんが、
道中で得られたものは大きいです。
 
「成長」もできたと思います。
このブログを描くことに充てていた時間を他のことに使っていたとしたら、
劣等感に苛まれ、同じところでもがき苦しむ自分が、まだそこにいたはずです。
 
文章にすることで、様々な「悩み」や「苦しみ」を、自分なりに消化してきました。
「雑草」という「生命」に興味を持てたことは、大きかったです。
 
彼らは、生まれる場所を選べない。
しかしどんなところでも、
驚くような個々の力を発揮して自分達の「花」をつける彼らのブレない強さ。
 
そんな彼らを見て、「生きる」意味を考えさせられます。
植物の勉強をするとわかるのですが、
彼らは「花」をつけるために驚くほどの精妙な工夫をしているのです。
例えばチューリップの球根は、一度冷えた環境にさらさないと、芽を出すことがありません。
これは、確実に春に「花」を咲かせるためです。
ベストのタイミングで「花」を咲かせるために、
チューリップの球根は一生懸命冬の寒さを感じ取ります。
 
「花」を咲かせたら、後は運任せ。
他の株の花粉を虫たちが運んできてくれたら、他家受粉によって種を付けることができます。
まさに「人事を尽くして天命を待つ」です。
 
それでは、私達人間にとっての「花」とは何なのかなぁと思います。
もちろん様々な解釈が考えられると思いますが、
自分の「命」を輝かせることではないのかなぁと、私は考える次第です。
 
例えば、わかりやすい例で言えば、手塚治虫さんは「漫画」という「花」を咲かせました。
手塚治虫さんの「花」は希に見る鮮やかな大輪ですが、
人間という「種(たね)」は、それぞれ自分だけの「花」を持っていると想うのです。
 
私には私だけの咲かせる「花」があるし、あなたにはあなただけの咲かせる「花」が。
 
雑草の「花」は、園芸種の「花」に比べて地味です。
しかし彼らの一生懸命に咲かせた「花」を見ていると、
どれも美しさを感じさせてくれます。
 
私達一般人は、園芸種よりも雑草に近い存在です。
誰かに世話をされる訳でもない。
誰にも見向きされないかもしれない。
誰かに踏みつけられても文句も言えない。
 
しかしそんな雑草にも、命があり、誇りがあり、使命があるのです。
 
私は、雑草に見習うべきことを教えてもらいました。
 
せっかく生まれたんだ。「花」を咲かそう。
 
私にとって、文章表現こそが「花」です。
私は、私だけの「花」を咲かせます。
 
さて、冒頭の話に戻りましょう。
私達は、この「世界」と「自分自身」の不完全さに悩み苦しみ、
そしてそれを解決するために、右往左往して、もがき続けます。
私達は皆、
「脳のないカカシ」であり「心のないブリキの木こり」であり
「勇気のないライオン」なのです。
 
しかしそんな「もがき」の旅を続けていく中で、
不完全だと思っていた自分達が「不完全ではなかった」ことに気づきます。
 
「何に対して不完全なのか?」という話です。
ヒマワリが、いくらタンポポの綿毛を欲しがってもどうにもなりません。
ヒマワリは、ヒマワリなりの方法で、自分達の種を広げていくしかない訳です。
 
世界や自分が「不完全」と感じるのは、幻の比較対象を持ってしまっているため。
結局自分は、自分という存在に対して「完全」なのです。
 
「幸せの青い鳥」では、
チルチルとミチルは結局自分達の手近なところに「青い鳥」を見つけます。
 
この「世界」に追い求めるものなど、何もない。
結局は、自分の中にあるものや与えられたものを育て開花させることが、
この「世界」に生きる意味なのかなぁと感じます。
 
ただひたむきに、日々を充実させて生きていくこと。
自分に有るものに感謝し、そこに意識を向け活かすこと。
そうした日々の中で、「幸せ」の「花」はつぼみをつけるのだと想います。