「同情」は、なぜ悪いのか?

私は、人に「同情」して行動します。
 
しかし世間一般では、
「同情」はよくない、「同情」は相手にとって失礼だ、と言われているようです。
 
ですので私は、このブログや、日常生活において、
「同情」という言葉はほとんど使っていません。
 
しかし実体として、
私の行動原理の大きなウェイトを占めている感情は、「同情」です。
私は「同情」して、相手に対して具体的に時間やお金を提供します。
 
昔のドラマ「家なき子」の名台詞で、
「同情するなら金をくれ!」という言葉がありました。
この言葉は、当時の新語・流行語大賞に選ばれるほどブームになったようです。
ウィキペディアは、こちら
 
これは、言葉だけで行動を伴わない「同情」を非難した言葉のようです。
併せて「同情」という感情自体に対しても、よい評価を加えていないようにも感じられます。
 
どうして「同情」は、悪い意味にとられるのでしょうか?
 
「同情」と似た意味の言葉に、「共感」があります。
「共感」という言葉には、悪い意味はないようです。
 
「同情」と「共感」は、何が違うのか?
 
「同情」のウィキペディアを見ると、以下のような説明があります。

同情(どうじょう)とは、他者の感情に対し共感する感情の同一性を指す。
ただし、共感とは異なる。
英語におけるSympathy(同情)の語源としては、ギリシア語より由来し、
共に苦しむこと、感情が同一になることを指している。
これより転じて、同情とは他者の苦しみに応答して、自らも苦しむような感情を持つ。

 
「同情」と「共感」は、異なるようです。
では、「共感」のウィキペディアも見てみましょう。

共感(きょうかん、英語:empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。
もしくはその感情のこと。
たとえば知り合いがつらい表情をしているとき、
相手が「つらい思いをしているのだ」ということがわかるだけでなく、
自分もつらい感情を持つのがこれである。
通常は、人間に本能的に備わっているものである。
しかし、例えば反社会性人格障害サイコパスの人物では”共感の欠如”が、見られる。
近藤章久は深い共感と直観を精神治療の根幹とした。
共感性がたとえば友情を生み出す。
友人になったきっかけは、「何となく」であることが多いが、
「何となく」の本性は、共感性である。

 
なるほど。
「共感」ができない場合、反社会性人格障害サイコパスの可能性もある訳ですね。
そういう意味では、「共感」は悪いどころか、人間に必要な「心」の機能と言えそうです。
 
「同情」(Sympathy)と「共感」(Empathy)。
具体的にどこが違うのか、まだ未解明です。
 
もっとネットを漁ってみました。
私の感性にしっくりきた説明は、
教えて!goo」の質問コーナーにありました。
 
以下、なるほどと思った回答の引用です。

同情と共感の違いは、自分の思いと相手の思いの区別がついているかどうかだと思います。
相手の思いの世界をしっかり感じていないと共感は難しいでしょう。
 
例として、聴いた話で。
ある自閉症の子がいて、やたら空き缶を大事に持ち歩くなど、
傍にはさっぱり意味の分からない行動をとり、「かわいそう」と同情されていました。
親にも全く理解できない子どもでしたが、ふとあるとき、
その子がガラクタを屋上に並べていたので、
隣で一緒に並べてそれを見ていたとき
「ああ、この子はガラクタにこの景色を見せたいんだ」とふと気がついたそうです。
 
この時に、この子にはこの子なりの世界があると思えるようになって、
その世界へ共感できるようになったのでしょう。
同情は「かわいそう」「けなげだ」などあくまで自分の価値判断で起こる感情ですが、
共感は、相手の思いの世界を実感を持って感じられるときに、
初めて起こってくる思いだと考えます。

 
なるほど、そうか。
「同情」には、どうしても「憐れみ」が伴います。
「憐れみ」とは、「かわいそう」と思う気持ちです。
 
しかし自分自身を「かわいそう」な存在と考えている人は、
世の中にそんなに多くないと考えます。
自分自身を「かわいそう」と感じている人は、
いわゆる世間で「構(かま)ってちゃん」と呼ばれる人達です。
 
多くの人はどんなに苦しくても、
自分自身の「世界」に折り合いをつけ、生きているのだと思います。
「かわいそう」は、誰かの援助が前提の言葉です。
 
成人した多くの人達は親から自立して、
誰かの援助を前提にして生きることは望めないことを知っています。
 
ですからそう言った人達に「同情」をすることは、
失礼というか、ズレた感情なのかなと感じるのです。
 
上記の「教えて!goo」の引用にもあるとおり、
「同情」は、あくまで自分の価値判断で起こる感情ですが、
「共感」は、相手の思いの世界を実感を持って感じることが必要になってくる
「心」の所作のように思えます。
 
そのように、この二つの言葉の意味を捉えると、
「同情」よりも「共感」できる人間になる必要があるなと、私は考えるのです。
 
「共感」が「友情」を生み出すと、「共感」のウィキペディアに記載がありました。
私は、友達を作ることが非常に苦手です。
私は人に優しくあろうと望んでいるので「同情」はたくさんできますが、
結局「共感」があまりできていないんだろうなと感じます。
 
相手に「共感」することで、同じ「世界」を一体として共有し、
そこに「他者」という一線を越えた「友人」の存在が出来上がるのでしょう。
 
私の中で、過去にその一線を越えて「友人」になった人はいません。
私の「心」の「世界」では、「他者」は「他者」なのです。
 
私は「同情」と「共感」を、はき違えていました。
「同情」では、相手とつながっていないのです。
 
私には、「相手の思いの世界を実感を持って感じる」ことができません。
 
どうしたら、相手の思いの世界を実感できるのだろう?
 
そのことを、このブログで考え続けてみたいと想います。