何もないところからやり方を模索する

私の仕事上での強みの一つに、
何もないところからやり方を模索するということがあります。
 
世の中には、書籍やネットから拾えないような、
手探りで模索するしかない情報って、まだまだたくさんある訳です。
あまり世間で頻回に行われていないような特殊なお役所への手続きとか、
よくわからないパソコンの不具合への対応とか、
ゼロからシステムを創りあげたりとか。
 
そうしたとっかかりのない模索を、私は粘り強く進めることができます。
ある意味、岩壁を登るロッククライミングのようなものです。
 
「ここら辺を手探りすれば、次のつかめる岩があるような気がする」
理詰めで、あるいは直感で、私は次のとっかかりの岩を探すことができます。
自分で道を拓いていく感じは、結構楽しいものです。
 
そうした訳で、私には未知の世界の模索力があると感じています。
 
さて、さんざんこのブログで描いていますが、
実は私達が住んでいるこの「世界」自体も、
なんのマニュアルもない不親切な場所です。
 
私達は、「ここか?」「それとも、あっちか?」と自分で当たりをつけて、
「人生」という岩壁を思い思いのルートで登っていきます。
 
ただ足場がろくにない岩壁を登るのは、とても恐ろしいことなので、
私を含む多くの人は、皆が使っているルートを後追いしようとする訳です。
しかし後追いしたって、先人と全く同じルートを通れる訳ではありません。
 
前の人が使ったとっかかりが、自分の時には崩落しているかもしれない。
前の人の体重では大丈夫だった足場が、自分の時には崩れて、
3メートルほど下に落ちてしまうかもしれない。
 
むしろ、あまり人が使っていないルートの方が、岩が安定しているかもしれませんね。
もちろん人が使っていないルートを登るには、自分の目利きが大切になってくる訳です。
頭や感性をフルに使って、自分のルートを手探りします。
 
人の後追いができないということは、とても怖いことではありますが、
一方で、自分だけのルートを見つけるという「楽しみ」や「喜び」があるのも事実です。
 
自分だけのルートを拓く場合、「人生」という岩壁と真剣に向き合う必要があります。
先人の後追いをしようとするときは、先人達の動向に関心が向きますが、
自分のルートを拓くときには、岩壁そのものに関心が向けられる訳です。
 
例えば、後追いをする人は、道中の花に目が行かないかもしれません。
そんなことよりも、先人のつかんだ岩が何だったのかが気になるからです。
 
一方で、自分でルートを開拓する場合は、ルート上に咲く花にも目が行くと思います。
その雑草の存在に、次のとっかかりを選ぶヒントがあるかもしれない訳ですから。
独自のルートを進む人は、全身全霊で岩壁と会話をしながら登っていきます。
 
 
 どちらの道を進むのか?
 
多くの人が通るルートを目指し、多くの人とザイルや信頼でつながる道。
独自のルートを目指し、「世界」や「人生」という岩壁と会話しながら頂を目指す道。
 
私には、後者の道の「喜び」がとてもわかるような気がします。
 
未踏峰の山を登る登山家や冒険家、ロッククライマー。
彼らは何故、危険を冒してまで登ろうとするのか?
 
「そこに山があるから」とは、イギリスの登山家ジョージ・マロニーの言葉。
 
何も持たずに裸で生まれた私達は、一体何をしたらよいのだろう?
世界という岩壁にとりついて、
世界という岩壁と全身全霊で会話して、
世界という岩壁の頂から見る光景に憧れるのも、一興です。
 
私は「世界」と、「魂」でぶつかってみたいと想います。
 
 「そこに世界があるから」