もしも「世界」が自分だけだったら

私は昔、
「自分以外の全ての人が自分だったらいいのに」と本気で考えていたことがあります。
そうだったら戦争も起きないのにって。
 
思考実験的には面白い発想で、
食料に乏しいアフリカの国々では、飢えた私はどのような行動をするのか?
そもそも自給自足的な生活をしている地域で、私はやっていくことができるのか?
考え始めれば、妄想の種は尽きないかもしれません。
 
しかし人類が全て私だったら、まだ旧石器時代の生活をしていただろうなと思います。
それどころか、捕食性の動物や様々な疫病に駆逐されて絶滅しているでしょう。
 
そう考えると、世紀の科学者達の存在は、
現人類を現人類たらしめている、本当に重要な個人なのだと思います。
それから、自然の猛威から家族達を護ってきた屈強な男性達も、
人類存続に大きな役割を果たしています。
また大航海時代に命を賭けて海に出て、新大陸を発見した人達。
とても私なんかには、マネができません。
 
私達が多様であるのは、現在人類が繁栄している結果に対する当然の帰結なのです。
 
それでも私は、世界中の人間が全部自分だったらなと妄想していました。
どうしてそんな願望を持っていたかというと、
自分と違う人間が怖かったのだと思います。
 
自分と違う人間は、何を考えているかわからないし、
どんな反応を返してくるかもわからない。
周りの人が、全部自分と一緒だったら安心できるのになぁ・・・。
 
今まで私は潜在意識化で、自分と異なる人を「害」とみなしていた節があります。
 
だけど、自分はオールマイティにそこそこ何かができる人間でもなく、
不得手な部分も多い非常にデコボコした人間です。
 
ニート的に部屋に引きこもっているのなら特に支障は生じませんが、
多くの人は社会に出て仕事をします。
そうしたときに、自分の能力だけではダメなのです。
 
「自分だけで何とかできる!」と思って、
身を削って気張っていても、当然結果を出せず自信をなくしていきます。
自分への自信もそうですし、生きる自信も。
 
社会に出て、少しずつ助けられることを覚えてきました。
それでも依然、人から助けられることは苦手でした。
 
ただ、最近ようやくわかってきたような気がします。
人に助けて頂くことの有り難さというか心地よさを。
 
それは「依存」とも違う心地よさです。
 
なぜそれを感じるようになったかというと、
自分にも他の人を助けられる領域があるということを理解してきたからだと思います。
 
私は、エクセル等を活用した数字処理が得意です。
職場でそういった強みの部分を職場の方々から頼ってもらううちに、
「頼られる」時の感覚がわかってきました。
 
「迷惑だ」なんて、感じません。
むしろ「頼って」頂くと、嬉しいです。
 
こういう風に思えるのは、そこに「尊敬」が満ちているからなのだと考えます。
 
相手を尊敬しないまま、何かを頼む場合、
それは相手を「モノ」として見ていることになり、相手を無視した態度です。
自分への尊敬がないまま、何かを頼む場合、
それは「依存」になってしまいます。
「依存」する人は、常に不安に囚われ、
こんなお願いをしてしまっていいのかな?と、
頼んだ事実に対して、自分の中で消化不良を起こすのです。
 
そのように考えていくと、対人関係において「尊敬」はとても重要なものだと感じます。
 
世界の人達が自分だけだったら、確かに楽ではあるでしょうが、
「尊敬」をするという概念も発生しないんだろうなと考える次第です。
 
相手に対しても。
そしておそらく、自分に対しても。