見よ、世界は美しい

「見よ、世界は美しい」
 
手塚治虫さんの作品「ブッダ」文庫版の帯に、この言葉がありました。
私の「心」に、強く残った言葉です。
 
何が美しいのか?
「生命」です。
 
仏教は、人間を特別な存在にせず、すべての「生命」を、救いの対象としています。
 
「なぜ、この世界は苦しみに満ちているのか?」
そういった疑問から始まったブッダの哲学は、
仏教という形で実を結びました。
 
「生命」を「縁起」の流れの中に捉え、
「輪廻転生」という壮大な「魂」の奔流の現れとして、私達「生命」は存在する。
 
手塚治虫さんの「ブッダ」では、
この「魂」の奔流を川の流れのように捉え、
私達の体が失われると、
「魂」は全て一つの流れに還っていくと表現されています。
その流れの中では、
体(脳)が存在する時には絶対にあった「私やあなたという区分」が失われ、
全てが一つになるのです。
 
現在の私は、そういう世界観を信じています。
 
そういった世界観を信じる私は、
道ばたに生えている雑草を始めとして、すべての「生命」に関心が行きます。
 
そうして関心を持って「生命」を見つめていくと、
やはり感じるのが「生命」の美しさです。
 
何が美しいのか?
その「一生懸命さ」です。
 
「生命」は、この世界に現れたら、例外なく「一生懸命」生きます。
野生の生命はもちろんのこと、ニートの人だって、自殺する人だって。
 
私は、最初の会社を辞めて資格の勉強をしていた時期があります。
しかし資格試験に失敗し、実家でニートの生活をしていたのですが、
その時は本当に苦しかったです。
「社会」にこのまま戻れなかったらどうしよう?という隔絶感や焦燥。
社会に貢献していない自分は、何のために生きているんだ?という存在懐疑。
働くときには働くときの苦しみがありますが、ニートの時期の苦しみはまた別格です。
 
また、自殺を決意する人だって、
自ら死を選ぶくらい「一生懸命」に悩んでいるのだと思います。
 
本当に皆、「一生懸命」なのです。
だから世界を観るとき、私はこの「一生懸命」に焦点を当てたいと願います。
 
好きな人も、嫌いな人も、偉い人も、道ばたの雑草も。
それから、自分も。
 
そしてそんな美しい「生命」が、更に極上の美しさを見せる時があります。
それが、「優しさ」です。
「生きる」ことはこんなに苦しいのに、
他の「生命」を助けようとする「魂」の想い、熱さ。
私達が涙を流す映画や小説の場面には、必ずこの「優しさ」が介在しているのです。
 
ただ私は善人ぶろうとは、思っていません。
ただただ私の生き方として、
この「一生懸命」と「優しさ」に焦点を合わせて生きたいのです。
 
私の生きる軸が「一生懸命」と「優しさ」であることを、ここで再確認します。
 
この軸を持ち続けていられるのなら、どこかでのたれ死んでも、それはそれで本望です。
私なりに「一生懸命」生きた結果なのですから。
 
どんなに、ぶざまでもいい。
「一生懸命」に「美しく」生きたい。