「莫妄想」
昨日、休日だったので北鎌倉の円覚寺に行ってきました。
臨済宗円覚寺派の大本山であり、
境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、
毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会も実施されています。
(円覚寺のウィキペディアは、こちら)
あの夏目漱石も、悩み事や迷いがあると円覚寺で座禅したそうです。
この円覚寺、もともとは鎌倉幕府第8代執権北条時宗が、
弘安5年(1282年)に元寇の戦没者追悼のため創建しました。
創始者は無学祖元という方で、
1279年北条時宗の招きに応じて来日した南宋出身の中国の僧です。
なお追悼されている元寇の戦没者には、日本だけでなく元側の人達も含まれています。
(北条時宗のウィキペディアは、こちら)
(無学祖元のウィキペディアは、こちら)
北条時宗は、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、
後世には日本の国難を救った英雄とも評されているそうです。
2001年には、大河ドラマの主人公にもなっています。
元を迎え撃つ1281年の正月。
強大な元軍とどう戦えばよいかと悩みに悩んで参禅した時宗に、
無学祖元は「莫妄想(まくもうそう)」という言葉を示したのだそうです。
「妄想する莫(なか)れ」
「うまくやろうとか、どうしたら勝てるかとか、負けたらどうしようかとか、
そのような雑念を起こすときではない。今やるべきことに専心せよ。」
果たしてそのアドバイスが功を奏したのかどうかわかりませんが、
時宗は見事にモンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退けました。
1281年に2度目の撃退を果たした3年後、時宗は満32歳の若さで死去。
自らが開いた円覚寺に葬られました。
彼の生き様は、まるで元寇から日本を護るために生を受けたような人生です。
国内では強権的なところもあったようですが、
満22歳の若さで1度目の元寇を退け、
満29歳の時に2度目の元寇を退けたその辣腕ぶりには、本当に驚嘆させられます。
さて「莫妄想」という言葉が示すとおり、
臨済宗では知識ではなく、体験的な悟りを重んじるのだそうです。
(臨済宗のウィキペディアは、こちら)
以下に、ウィキペディアの解説を引用します。
禅宗における悟りとは
「生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付く」ことをいう。
仏性というのは「言葉による理解を超えた範囲のことを認知する能力」のことである。
悟りは師から弟子へと伝わるが、それは言葉(ロゴス)による伝達ではなく、
坐禅、公案などの感覚的、身体的体験で伝承されていく。
様々な思想や哲学、宗教、科学の知識をかいつまんでいる私からすると、
耳の痛いお話ではあります。
まあ私は私なりに、
どこにも属さずに「世界」や「命」の「本質」を探っていきたいと願う次第です。
さて現在の円覚寺でも一般の人向けの土日の座禅会をやっていたり、
境内には現在も禅僧が修行をしている道場があります。
今なお多くの人が、生の「迷い」に翻弄され、「悟り」を求められているのでしょうか。
(もちろん、当の私自身も「迷い」のど真ん中におりますが)
当日私が訪れたときも、修行するお坊さん達の読経の声が鳴り響いていました。
舎利殿という建物の、隣の道場からです。
私は、その大勢のお坊さん達の一糸乱れぬ読経の声に、
しばらくその場にたたずみ、じっと耳を澄ましました。
その読経の声がエネルギーに溢(あふ)れ、私の「心」を強く揺さぶったからです。
「莫妄想」
私が支援している人に、また悲しいことが起こりました。
私自身も、現在大きな混沌の中です。
普段あまり神頼みはしないのですが、
私は円覚寺でお釈迦様を前に、
私が大切にしている人と私自身によい流れが来るよう祈りました。
「莫妄想」
そして、今自分ができることに専心しようと、私は「心」を新たにしました。