「不完全」

人は、なぜ苦しむのか?
ブッダが、掲げたテーマです。
 
生きる上での「迷い」の源泉は、この問いに集約されると思います。
 
キリスト教では、
人間は生きながらにして「原罪」を背負っているからという話になるようです。
 
私はこの考え方には、救いがないように思います。
 
「原罪」とは、過去にアダムとイブが犯した「罪」です。
その後人類が受けている苦しみは、
その「罪」に対する「罰」ということになります。
結局、神からその「罪」を許されない限り、人類は苦しみから逃れられないと。
 
仏教のでは、
人(や生命)が苦しむ原因は、「煩悩」にあると言っているように考えます。
人は「欲」を満たされないから苦しむのであり、
「足る」を知れば、苦しみから解放されると。
 
実践可能なのは、仏教の方ですね。
聖書をテキストとするキリスト教を始めとする宗教では、
神から許してもらうことを、ひたすら祈り続けるしかありません。
 
聖書をテキストとする宗教の、「こうだからこうである」という物語的アプローチよりも、
仏教の、要因を突きとめ、一般人にも実践可能な方法を模索するような、
科学的アプローチの方が、私は好きです。
 
 
人は、なぜ苦しむのか?
 
この問いに対して、あなたはどう答えるでしょうか?
 
この問いにどう答えるかによって、その人の人生観が見えてくるように思います。
 
私の考えは、「苦しむ」ことにも意味があるということです。
その意味を解すれば、「人生」の意味も見えてくると考えます。
 
 
人は、なぜ苦しむのか?
 
それは全てが「不完全」だからです。
 
世界も、人も、自分自身も。
 
しかし人は、「完全」を頭に思い浮かべることができる。
だから、そのギャップに苦しむのです。
 
例えばリンゴを頭に思い浮かべてください。
完全な左右対称の美しいリンゴを思い浮かべることができるでしょう。
 
しかし実際にスーパーに行って、
頭に思い浮かべたリンゴと寸分違わぬリンゴを見つけることはできません。
必ずどこかに歪がある不完全なリンゴしか、実際の世界にはない訳です。
 
「完全」を知っているのに、「不完全」に囲まれている現実に、
私達は苦しんでいるのだと思います。
 
自分自身だってそうです。
私達は、自分の「完全」な状態として、理想の自分が常に頭の中に存在しています。
 
でも実際に生きていて、見せつけられるのは「不完全」な自分。
 
「世界」も「不完全」。「人」も「不完全」。「自分自身」も「不完全」。
 
そりゃあ、苦しい訳です。
 
 
では「苦しむ」ことには、どんな意味が?
 
私は、「不完全」を直視することが「苦しむ」ことの意味だと思います。
そして、そこから「人生」の果実を生み出すのです。
 
「世界」の「不完全」さを直視することで、
困っている人に手をさしのべる「優しさ」が生み出されます。
 
「人」の「不完全」さを直視することで、
醜いところも含めた本当のその人自身を受け入れる「愛」が生み出されます。
 
「自分自身」の「不完全」さを直視することで、
真の自分を理解し、真に自分のできることを把握することで、
自分に対する「誇り」が生み出されます。
 
 
「生み」の「苦しみ」。
 
人が苦しむ理由はそれだと、私は考えるのです。
私達が生むのは、「子ども」だけではありません。
「優しさ」や「愛」や「誇り」といった果実を収穫するために、
私達は生きているのではないでしょうか?
 
「苦しみ」の対価を想像できれば、「苦しみ」は「苦しみ」でなくなります。
無意味な「苦しみ」こそが、真の「苦しみ」です。
 
ソ連強制収容所で行われていた刑罰で、
ひたすら穴を掘らせて、そしてその穴を埋めさせる、というものがあります。
強制収容所に収監された人達は、その意味のない責め苦に、精神をやられるそうです。
 
 
人は、なぜ苦しむのか?
 
そこには、絶対的な理由があります。
それは、「優しさ」や「愛」や「誇り」という果実を収穫するために。
 
「不完全」に行く手を阻まれても、逃げないで。
その時こそ、「人生」の果実を手に入れるチャンスだと想うので。
その瞬間こそが、「人生」の「意味」が成されるチャンスだと想うので。