死なない程度に「負荷」をかける

人は生きていく上で、
様々な悩みや苦しみが伴いますが、
こればかりはどうしようもないところです。
 
どんな金持ちや権力者だって、
四苦八苦からは逃れられません。
 
尽きないストレス。
日々、個々のストレス源と向き合っていると、生きるのが億劫になってきます。
 
「なんで、こんなにストレス源ばかりなのか」と。
 
ストレス源の1個1個に目を向けていたら気が滅入るばかりなので、
それをもっと大局的に捉えたら、気が楽になるかもしれません。
 
仏教の四苦八苦のように、個々のストレス源をもっと大きなものの一部として捉えるのです。
 
100個の細かいストレス源を、1つの大きな塊としてみたら、
「心」が楽になるような気がしませんか?
 
例えるなら、
今から帰る部屋に100匹のゴキブリがいることがわかった場合、
その部屋には絶対に入りたくないでしょう。
しかし帰り道でバルサンを購入して、
部屋のゴキブリを一網打尽にできる手段を用意できたら、
なんとか自分の部屋を奪還する気力が起きると思います。
 
この要因として、
バルサンという手段を用意したことで、
ゴキブリ1匹ずつと闘う必要がなくなり、
ゴキブリを群れとして塊で認識できるようになることも大きいです。
 
我々のストレス源も、生きている限り尽きることなく発生します。
そうした時に、個々のストレス源と一々にらめっこしていたら、
気が滅入ってしまうのは当然のことです。
 
そうではなくて、発生するストレス源には、
「試練」とか「負荷」とか、
意味づけした上位グループにまとめてしまうのがよい方法だと思います。
 
私の場合、無尽蔵に発生するストレス源はまとめて、自分にとっての「負荷」です。
 
生きていく上で「負荷」はつきものであり、
逆に「負荷」の全くない「人生」を送ったとしたら、
「魂」がちゃんとした形を保つのが難しいように思います。
 
無尽蔵に発生する日々のストレス源を「負荷」と意味づけしてグルーピングするならば、
日々のストレス源に対して、気が滅入ることはなくなるはずです。
逆に、一つの塊としてグルーピングできたことで、
「心」にその対象を受け取る準備が整います。
 
100個のボールはキャッチできませんが、
1個のボールに対してなら、キャッチャーミットを構えることができるのです。