「やさしい」って、どういうこと?

先日、
『「やさしい」って、どういうこと?(宝島社)』という書籍を購入しました。
著者は、アルボムッレ・スマナサーラさん。
 
スリランカ出身の方で、
現在は日本テーラワーダ仏教協会という、
初期仏教を日本で布教している団体の長老をされている方です。
日本テーラワーダ仏教協会ウィキペディアは、こちら
 
組織自体の評判はネット上では様々にあるようで、組織自体については深く触れませんが、
アルボムッレ・スマナサーラさんは養老孟司さんとの共著を始めとして、
多くの著書を出版しています。
 
ずっと「優しさ」とは何かを考えていた私は、
書籍の題名に惹かれて、購入を決めた次第です。
 
読んでみて、「これは当たりだ」と感じました。
 
初期仏教に基づいて書かれているのでしょうが、
現代の世界に置き換えて話が展開されており、とてもわかりやすかったです。
なによりこの本は、私の「優しさ」に対する認識を見事に変えてくれました。
 
この本の中に、
私が長年求めてきた「優しさとは何か?」という問いへの答えが明確にあったのです。
 
この本によると・・・
「優しい」は、世界に普遍的に存在するものではありません。
「優しい」は、個々の人々の中に、個々に存在する概念です。
 
「優しい」とは、個々の人々の中のエゴによって形作られます。
自分の欲求を満たしてくれる人が、「優しい」人なのです。
 
各自の欲求が「優しい」の基準を作るので、
千人いれば千通りの「優しい」が存在することになります。
 
結局「優しい」人というのは、
自分の欲求を満たしてくれる自分にとって都合のよい人だということです。
 
だから私が目指していた「優しい」人になろうとする目標は、
誰から見ても「優しい」人になるということを意味するので、
そんなことは実現不可能ということになります。
 
Aさん、Bさん、Cさんから見て「優しい」存在になれたとしても、
DさんやEさんにとって「優しい」存在になれるかは未知数なのです。
 
「優しい」=「自分にとって都合のよい人」ならば、
「優しくなりたい」という欲求も、決して崇高なものではありません。
「優しくなりたい」と願うのは、
「この人と仲よくしたい」という下心があるか、
「人から優しくされたい」という欲求の裏返しなのか、
「人を助けてあげた」という精神的見返りを求めてのことなのか、
必ず期待する対価が潜んでいる訳です。
 
ただしこの本では、「だから優しさは邪悪なんだ」という結論にはなっていません。
私たち生命はすべてネットワークとして繋がっているんだから、
誰かが誰かのために何かをしようとする「優しさ」は、
「幸せ」に生きる上で必要であるとしているのです。
 
この本では、「優しさ」はさじ加減だと言っています。
人が他者に求める事柄を、「必要(needs)」と「欲求(wants)」に分けたとき、
「必要」に応えようとする「優しさ」は、
生命というネットワークを維持するのに必要な
健全さを有する「優しさ」であるとしているのです。
砂漠で水がなく行き倒れている人に、
自分の水を差し出すことは健全な「優しさ」であると言えます。
一方で、他者の「欲求」まで満たそうとする「優しさ」は、
度を越えたエゴの伴う「優しさ」である訳です。
 
この本の内容に照らせば、
「優しさ」がこの「世界」に必要不可欠な要素であるという私の持論は、
あながち間違っていた訳ではありません。
しかし「優し」ければ何でもよいということではなく、
「世界」や「生命全体」の成り立ちをイメージしたうえで、
適切な「優しさ」を把握し実行していくことが、
「幸せ」に生きる上で重要であるようです。
 
自分は「生命」のネットワークの一員。
例えるなら、血液を流れる赤血球。
赤血球のように、私は「必要」とする他の細胞に酸素を届けます。
それが「生命」のつながりという大きな視野で見た時の私の役割。
 
血液はサラサラっと流れる方が、健康なのです。
何事かに執着して、ドロドロの血液になってしまっては、
個々の赤血球も息苦しくなってしまいます。
 
サラサラと自然に流れる「優しさ」を目指して、
これからも「優しさ」道を精進していきたいと想う次第です。