繰り返しているのか?積み上げているのか?

たびたび出している例で恐縮ですが、
ソ連強制収容所では、
収容者に穴を掘らせては埋めさせるという苦役がありました。
 
苦労して自分の掘った穴をまた自らの手で埋めるという、
無為な労働に、収容者の精神はやられてしまう訳です。
 
「心」というものは、永遠の繰り返しに耐えられるようにできていません。
永遠の繰り返しに耐えられるのは、「モノ」や機械です。
「心」は、そこに一生懸命「意味」を見出そうとします。
 
人は「無意味」の中では、生きていけない。
哲学者ニーチェは、
永劫回帰」の「無意味」な「人生」の中で自らの確立した意思でもって行動する人を、
「超人」と呼びました。
それだけ「無意味」の中で生きていくことは、困難なことなのです。
(超人のウィキペディアは、こちら
 
ところで、「意味」や「目的」というものは、数値や数式で表すことが不可能です。
私は、「モノ」と「心」の境をここに見ています。
すなわち、「数値」や「数式」、プログラミング言語等は、「モノ」側の概念である一方、
「意味」や「目的」、物語や信仰は、「心」側の概念であると考える次第です。
 
科学は、「数値」や「数式」を駆使して、「世界」を把握しようとしていますが、
そこからわかるのは「モノ」側の半面だけであり、
もう半分の「心」の「世界」に対しては、
科学とは異なるアプローチが必要だと私は考えています。
 
そして「モノ」は、客観的に共通の原子や素粒子から成り立つものなので、
世界中の科学者が共同でそこを突き詰めるということが可能です。
しかし「心」は、一人一人が独自の主観的な存在であり、
それぞれがそれぞれに宇宙のような深みと多様性を有しているので、
科学者のような誰か頭のよい人が代表してその真理を追求することは困難だと考えます。
あくまで、自分の「心」は、自分で分析・解明していくしかない訳です。
 
上記のことは、簡単に証明できます。
「モノ」は説明書があれば、操作や生成が可能です。
しかし、「心」は「知識」だけではうまく動きません。
個々に「体験」をしないと理解できないことが山ほど有る訳です。
「モノ」と「心」は、別の法則で動いています。
 
ですから私達は、
「モノ」に属する「科学」の発展は、誰か頭のよい科学者に任せればよいのですが、
自分の「心」の発展は、人任せにできない訳です。
あくまで、自分が自分の「心」の科学者になって、「心」を解き明かす必要があります。
 
そういう意味で私のこのブログは、自身の「心」解明に寄与している訳です。
 
さて、今日描こうとしている主題からだいぶ外れてしまいました・・・。
今日の主題は、「人生」を「繰り返し」と見るか?「積み上げ」と見るか?ということです。
 
冒頭でも描いたとおり、「心」は「無意味」には耐えられません。
「人生」が単なる日々の「繰り返し」ならば、そこに「意味」を感じることは困難です。
日々を「繰り返し」と捉えてしまった時、
ソ連強制収容所の収容者と似たような心理状態となり、「心」は疲弊していきます。
 
そうではなくて、自分は日々何らかを「積み上げ」ていると捉えることが、
自身の「心」に力を与える方策になるのではないかと考える次第です。
 
なぜ私達は生まれたのか?
それは、少なくとも「無意味」を「繰り返す」ことではないようです。
「心」は、生まれたからには「積み上げる」ことを望んでいます。
 
何にもない一日のように感じても、ちゃんと探せば絶対に新しい何かがあるはずです。
例えば、日々入院している人でも、
その日にする会話や浮かぶ考えは、生涯一度きりのものになります。
 
ですから「モノ」ではない私達にとって、
全ての事象が本当は「一期一会」なのです。
ちゃんと一日を味わって食べないと、毎日が「繰り返し」のように感じられてしまいます。
 
そこで私は、来年の抱負を「一日一日、積み上げる」ことにするつもりです。
「積み上げる」ことは、別に「学び」だけではありません。
「失敗」でもいいし、「体験」や「思い出」も大事です。
 
とにかく、一日を味わうこと。
そして「生きる」ことの味がわかったら、
休日にはもっといろんな味を楽しもうとすること。
 
そうすると、きっと「心」に活力が宿り、
前向きにパワフルに日々を生きることができるんじゃないかなと、考える次第です。
 
この「一日一日、積み上げる」ために、
私は専用ノートを準備し、年明けから日々の積み上げを記録することで、
日々に対する私の味覚を養っていきたいと考えています。
 
「心」の「活力」が枯渇している私にとっては、必須の課題です。