「死」についての考察(1)

「死」について、真剣に「考察」したことがありますか?
 
実は「死」についての「考察」は、
「人生」って何だろう?
「幸せ」って何だろう?
という「考察」と同様に、個人が考えるべきテーマです。
「人生」をどう解釈するかと同様に、「死」をどう解釈するかは、
非常に個人的な作業になります。
 
なぜなら「死」は、誰にでも必ず起こる非常に身近な現象にも関わらず、
科学では解明されていないからです。
 
もちろん、物質的(外面的)な「死」は、様々に定義されています。
物質的(外面的)な「死」とは、日本では医師の死亡判定となる訳です。
また、臓器移植のための「死」の判定について、
専門家が議論を交わしているニュースを見たことがありませんか?
 
私が今回このブログで言いたいのは、
そういった物質的(外面的)な「死」のことでなく、
体験的(内面的)な「死」のお話です。
 
「死」んだら、ここにいる「私」や「あなた」はどうなりますか?
 
「無」になるとか、「あの世」に行くとか、
そういう「とりあえず」の認識だけで大丈夫ですか?
 
もっと自分なりに腹オチする仮説を持っていた方が、
「人生」を「生きる」のに迷いが少なくなるような気がします。
 
以前にもブログで描きましたが、
「死」をどう捉えるかで、「生」き方が変わってくると、私は考えるのです。
「死」んで「無」になると本気で考える人なら、
損得だけ考えて生きる傾向が強くなるでしょうし、
快楽をなるべく追求しようとすると思います。
一方で「生」きた結果が、「死」後もなんらかなスコアとして残るのなら、
自身の「あり方」に意識が向くでしょう。
 
しかし「無」になると簡単に言いますが、では「無」になるとはどういうことでしょうか?
物質には、質量保存やエネルギー保存の法則があるのに、
「死」だけ「無」になるのは、考えてみると不思議なような気がします。
「確かにここにいる私」は、本当に簡単に「ゼロ」になるのでしょうか?
 
一方で、「生命」はどんどん生まれています。
このどんどん発生する「命」は、どこから来たのでしょうか?
「ゼロ」から生まれたというのも、本当にそうかなぁと感じませんか?
簡単に「無」と言う人が多いですが、
「無」ってそんなに簡単なことじゃないし、
科学的にはとても説明が難しいことを言っていると認識すべきだと、私は思うのです。
 
この「無」から「有」が生まれるのは、実は「宇宙」に似ています。
「宇宙」は、「無」の状態からビッグバンという大爆発が起こり、
現在の「有」の状態になっている訳です。
 
だから私は、一人一人の「命」や「主観」は、「宇宙」と同等であると考えています。
その「生命」にとって、生まれてから死ぬまでが、全てなのです。
「一人の生命は地球より重い」ということを言った政治家がいますが、
本当はその「生命」の主体からしたら、地球どころか「宇宙」レベルの話なんだと思います。
それほどまでに、個々の「生命」の主体にとって、自分が死ぬということは、
地球上の平和がどうだの経済がどうだの環境がどうだのという話よりもずっと、
本当はものすごく大きな話だと考える次第です。
 
例えば、私達が他の「宇宙」を観察できる技術を持っていたとして、
その「宇宙」を観察していたら、その「宇宙」が終末を迎えたとします。
外部から観測するだけでは、それは単なる一現象に過ぎない訳です。
しかし、その「宇宙」に住んでいる「生命」が、
どのように「終末」を体験したのだろうということは、
外部からはわからないと思います。
 
ですから「死」についての本当の「考察」は、個々人が行うしかないと思う次第です。
「死」に対する認識が他人の受け売りのままで、本当によいのですか?
この「命(宇宙)」の終わりは、
この「命」=私達一人一人が、真剣に考えて仮説を立てないと、
「騙された!」ってことにもなりかねませんよ。
 
この宇宙の始まりは、「無」からという話をしましたが、
実は「無」の中にも、プラスとマイナスのゆらぎがあり、
そのバランスが崩れて、世界がプラスに満ちたという説があるようです。
(上記は科学的な言い回しでなく、ざっくりと書きました)
 
私達の「生まれる前」や「死んだ後」も、
完全に「消えてしまう」ということではなく、
なんらかの違う形があるのかもしれませんね。
 
そんなような「死」についての「考察」を、
このブログで後2〜3回、シリーズ物で続けようと想う次第です。