「死」についての考察(2)

メメント・モリ
〜「死」を思え〜
 
ウィキペディアによりますと、
この言葉は、
古代ローマで「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」そうです。
 
将軍の後ろに立つ使用人は、
「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを
思い起こさせる役目を担当していました。
そこで使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていたのです。
 
古代ローマにおいて、
メメント・モリ」の趣旨は「今を楽しめ」ということで、
「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスでありました。
ホラティウスの詩には
「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」
(今は飲むときだ、今は気ままに踊るときだ)とあるそうです。
 
これは死後の世界を当てにしていないからこそ、出る発想だと思います。
 
しかし、この「メメント・モリ」は、
後のキリスト教世界で、真逆の意味を持つことになったのです。
キリスト教では、天国、地獄、魂の救済という「死後の世界」が重要視されます。
ですので、キリスト教徒にとっての死への思いは、
現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、
来世に思いをはせる誘引となったそうです。
 
 あなたは「死」を思ったとき、どのようなことを感じますか?
 
正直なところ、私は今「死」に安らぎを覚えてしまっています。
(これは決して、自殺をしたいとか、そういう意味ではありません)
 
「生」に対して感じる魅力が、とても薄い。
 
例えるなら、ゆるい坂道を自転車で必死に漕いで登っている感じ。
いっそのこと、道を外れて下って帰りたい。
 
やっかいなことに、その道をなんで登り始めたか覚えていないんですね。
 
だけど、やりがいや楽しいことが少しずつでも発見されるので、
そういった発見に励まされながら、なんとか道を登っています。
 
もちろん、悪いことも起こります。
雨が降ったり、雪が降ったり、突風が吹いたり、ものすごい悪路に悩まされたり。
 
それでも私達「生命」は、毎日毎日ペダルを漕ぎ続けます。
 
真冬の野良猫を見て下さい。
 
あんな寒がりの生き物が、身も心も凍える寒風の中で生きていくことの残酷さ。
私は、寒空の下の彼らを見ると、とても苦しい気持ちになります。
 
皆「生きる」ことの理由を見つけて、生きているのでしょうか?
一人旅や散歩好きの私は、
道を登る道中の素敵な発見に「心」を励まされながら、道を登っています。
苦しいことも日々あるので、自転車操業的に登っている感じです。
 
そして、そんな想いで一生懸命登っても、いつか「死」が訪れる。
 
そうやって、いつか「死」ぬことを想ったときに、
私が感じることは、古代ローマ人の「今を楽しめ」です。
よいことを楽しむことは易しいですが、
悪いことはどうしましょうかね?
 
できれば、悪いことも楽しめるような、気の持ち方をしたいものです。
 
生きていれば、下らない感情の対立とか、理不尽な仕打ちに、遭遇します。
そんな災厄的なものまで楽しめるようになるためには、
「死」を想うことが必要です。
 
「死」を想うことなしに、災厄を乗り越えることはできません。
 
人間にとって、どんな神々よりも、死神の力は強いのです。
 
「どう生きようが、お前は最後に死ぬのだ」と死神が言っています。
それは、どんな思想の人であれ、皆が理解する絶対の法則です。
「頑張れば、こんな御利益があるよ」という話よりも、確実に。
 
メメント・モリ
「死」を傍らに置き、この「世界」を味わい尽くしたいと想います。