「死」についての考察(3)

量子テレポーテーション」という言葉を、ご存じでしょうか?
 
実は現在の科学技術で、テレポーテーションは成功しています。
「え?」と思う人もいるかもしれませんが、
現在テレポートに成功しているのは、「モノ」ではなく「情報」です。
 
詳しくは、ウィキペディアをどうぞ。
 
その仕組については、
このブログでもいつか改めて説明したいと思います。
量子力学における「量子もつれ」という現象を応用した技術です。
 
量子テレポーテーションの存在は、
「情報」が光速という限界を越えて、瞬間移動が可能だということを意味します。
つまり250万光年のかなたにあるアンドロメダ星雲の人とも、
リアルタイムの電話での会話が可能だということです。
 
私は、この「量子テレポーテーション」の話を聞いて、
以下のようなことを考えたことがあります。
 
「モノ」には、それ自身の法則の中に「距離」という概念があり、
「距離」を無視した動きはできない。
一方で、「情報」には「モノ」とは異なる法則がある。
その法則には、「距離」は関係ない。
 
例えば、「虫の知らせ」という言語化された現象があります。
もしこの現象が本当にあるとしたら、
対象となる「情報」は、「距離」に関係なく瞬時に、
「モノ」とは別の次元を介して、対象者に伝達されるのでは?と考えている訳です。
ですから、アンドロメダ星雲に住んでいる、近しい人が亡くなったときでも、
一瞬にして「虫の知らせ」は、地球にいる対象者に伝達されると私は想像します。
 
もちろんテレパシーという現象が存在した場合にでも、
同様のことが言える訳です。
「想い」は「光速」をも越えて届くという風に、私は考えています。
 
つまりは、「距離」という絶対の法則に縛られたこの「宇宙」ですが、
それは「モノ」についてだけの話であり、
「情報」については、
「距離」という概念がない別の「次元」の存在なのではないか?と疑っている訳です。
 
ユングが提唱した「集合的無意識」は、
上記で挙げた考え方との親和性が高いと考えています。
(「集合的無意識」のウィキペディアは、こちら)
 
ユングは、人類の無意識の一番奥が繋がっていると考えました。
だから、地理的にかけ離れた日本の神話とギリシアの神話に、
同じようなタイプの話が認められる訳です。
 
でもひょっとしたら、
アンドロメダ星雲の人達の創りだした神話にも同じような話があるかもしれません。
この「集合的無意識」が、「距離」の制約を受けないのならば。
 
さてさて、今日のテーマは「死」だったのですが、
ずっと関係ない話をしてきてしまいました。
話を「死」に近づけていきます。
 
私達のこの「意識」や「自我」。
私は、「モノ」界に属するものではないと、ずっと想ってきました。
「今私が確かにここにいる」という絶対的なこの感覚は、
「モノ」の法則で説明できるものではないと考えるのです。
「モノ」とは違う次元で、「意識」や「自我」は存在すると予想しています。
 
そして私は、
「意識」や「自我」は、「モノ」でなく「情報」に属するものだろうと睨んでいる訳です。
 
であるならば、自分達が死んだらどうなるか?ということを、
いくら「モノ」的に考えても、答えには辿りつかない。
「情報」の世界という、
新しい「次元」の法則で考えないと理解できないのでは?と夢想するのです。
 
「モノ」の世界では、「1+1=2」です。
しかし「情報」の世界では、「1+1」の答えはどんな数にも成り得ます。
その答えを想像する人達の数だけ、答えは無数のパターン生まれるのです。
 
 死んだらどうなるか?
 
「モノ」的に考えて、「死」を悲観している人も多いかもしれませんが、
「死」は果たしてそんな「モノ」的な制約を受けるものなのか?
常識に基づいた決めつけは、禁物だと想う次第です。
 
最新物理学では、「多次元解釈」を科学者が真面目に議論しています。
「多次元解釈」とは、この「世界」が無限に分岐した枝の一つであり、
無数のパラレルワールドが存在するという考え方です。
(多次元解釈に関する過去ブログは、こちら
 
私達の意識には「自由意思」というものがあると言われていますが、
私達が「自由意思」に基づいて何かを選択したときに、
「世界」はどんどん分岐している可能性がある訳です。
 
つまり今日のランチを、「A定食」にした「世界」と、「B定食」にした「世界」。
あなたは「A定食」を選択したつもりでいるかもしれませんが、
あなたが昼飯を悩んだ段階で、
あなたが「B定食」にした「世界」も生成されているかもね、というお話です。
 
「モノ」と「情報」という異なった2つの存在ですが、
主従関係を考えたときに、「多次元解釈」等を考慮すると、
「情報」の方が「モノ」に対して「主」かもしれないなとも感じます。
 
「モノ」側の法則は、
実験や観測がしやすく再現性もあるので、理解が非常に進んでいます。
しかし「情報」側の法則は、「経験」や「感覚」が属する情緒の世界であり、
「音楽」や「小説」の世界です。
私は「ハンターハンター」という漫画を面白いと感じていますが、
この漫画が面白いかどうかを、科学的に証明することはできません。
それこそ感じ方は、人それぞれ。
それが「情報」側の世界なのです。
 
話が長くなりましたが、まあそんな訳で、
「死」について、「モノ」的・常識的な解釈で捉えてあまり悲観的に考えすぎても、
それは的外れになりそうだなと、私は考えます。
 
「死」を本当に理解したいのなら、「モノ」の次元で考えないことです。
「情報」の世界は、「距離」の概念すらない全くの異次元なのですから、
もっと次元を越えた広い視野を持つことが重要だと、私は想います。