「夢」の適齢期

「夢」というものを、真剣に考えてみました。
 
皆さんは、「夢」を真剣に追ったことがありますか?
 
私は、ありません。
子どもの頃に、「夢」を想い描いたこともありません。
 
さて「子どもの頃の夢」は、世間一般では好意的に解されるものです。
もちろん私も「ほほえましい」と感じますが、
私は「子どもの頃の夢」という存在に、3つの矛盾を感じます。
 
(1)社会のことに詳しくない子ども達が、
   テレビやアニメといった少ない情報源の下、
   本当になりたい職業を「心」に描くことができるのか?
 私は、体育が苦手な子どもでした。
 ですから、野球選手やサッカー選手、宇宙飛行士という選択肢は、
 子ども心に「無理」と感じていました。
 「じゃあ、他の選択肢は?」という時に、
 社会の仕組みもわからない小学生には、何も思い浮かびません。
 だから私は、思うのです。
 小学校の社会科の授業の卒業課題として、
 現時点で自分が目指したい職業を決めるというものがあれば、
 よいのではないか?と。
 子ども達は、自分が選んだ職業について、ちゃんと自分で調べます。
 ・なぜ、その職業になりたいのか?(収入以外の動機も)
 ・その職業の日々の仕事は、具体的にどんなものなのか?
 ・その職業は、社会にどんな貢献をしているのか?
 ・その職業になるためには、どのような勉強や体験をすればよいか?
 これこそ実のある社会科の勉強だと想うのですが、いかがでしょうか?
 社会科とは、社会のことを勉強する教科。
 自分が社会に参加するための社会との接点を学ぶ取り組みは、
 極めて実践的に教科の目的を達成すると考えます。
 
(2)そもそも「夢」は、職業でないといけないのか?
 お嫁さんという「夢」もなくはないですが、
 基本「子どもの頃の夢」は、職業であることがほとんどです。
 大人になってやることって、仕事しかないんですかね・・・
 まあしかし職業以外の「夢」なんて、
 我々大人でも想起することが難しいと思います。
 現実世界においては、
 自分の「夢」に適った職業を選択できている可能性は、
 非常に低い訳です。
 収入との関係もありますし。
 職業選択というのは、なかなか思うように行かない。
 「夢」というものは、
 「人生」に好ましい潤いを与えると私は考えています。
 ですから仕事に「夢」を持つことが難しいのなら、
 仕事以外のところで「夢」を持つ「心」の柔軟性が
 必要なのかなと思う次第です。
 これは「子どもの頃」というよりは、
 大人になった私たちにとっての課題かもしれません。
 
(3)「夢」は、子どもだけのものではない。
 上でも述べていますが、
 「夢」の伴う仕事に就けなかった私たち大人は、
 自分の「夢」というものを、あまり考えなくなるような気がします。
 現実との対応で、日々精一杯です。
 今こそ、我々大人も「夢」を見てよい頃ではないでしょうか?
 「夢」は、
 カサカサに乾燥した私たちの「心」に潤いをもたらします。
 私たちは、
 社会や周囲のニーズに応えるだけの機械のような存在では決してない。
 私たちは、自ら「夢」を創造し「夢」に向かう、
 この世界に生まれた意味のある素敵な「命」なのです。
 
 我々は、今こそ「夢」を見る時なのだと想います。
 
私は、このブログに「夢」を乗せるつもりです。
ネットの海にばらまいた750本以上のブログ記事は、
瓶に詰められた手紙のように、
様々な人々に拾い上げられ読まれました。
ある人は、私の文章をツイッターで紹介して頂いたり、
ある人は、私のブログに直接コメントを書いて頂いたり、
ある人は、直接私にメールを送って頂いたり。
 
このブログは、私の生きた証であり、私の生きている命の「脈動」です。
その「脈動」に触れた他の人たちの「心」に、
何らかのさざ波を起こすことができたのなら、
私がこの「世界」に生まれた「意味」が確かにあると、私は考えます。
 
私は、もっともっとこの「世界」にさざなみを起こしたい。
自分の現在進行形の「人生」を表現することで、
自分の生きている「脈動」を自分でしっかりと噛みしめたい。
そして、その「脈動」が「世界」に混じり合い、
「世界」の一部として力強く鼓動することを、私は願うのです。
 
「夢」を見ることは、子どもだけの特権ではありません。
「生命」は、「命」ある限り「夢」を見続けるものです。
「夢」には、私たちの「魂」を惹きつける「煌めき」があります。
それは「救い」と呼べるほどの、力強い「煌めき」です。