「共感」の光と影

前回のブログ記事の論点は、「やさしさ」に対するダメ出しでした。
 
今日は、「共感」にダメ出しをしたいと思います。
 
もちろん「やさしさ」や「共感」には、
確かに美しい面があることを認識した上で、
しかしそれは一面的な見方に過ぎないというアンチ・テーゼとして、
今日の記事を展開したいと思う次第です。
 
物事を多角的に見ることで、初めてその立体像が浮かび上がります。
 
「共感」とは何か?
それは、哺乳類や鳥類等の高度に進化した生命が獲得した
相手の感情を自身の感情として感じる(あるいは錯覚)する機能です。
 
このブログで何度も挙げているネズミの「共感」の例を紹介します。

あるネズミに、ケージ内のボタンを押すと餌が出ることを学習させる。
すると彼は、ボタンを押して気ままに餌を食べるようになる。
しかしある時、そのボタンにもう一つ機能を追加します。
それは、ボタンを押すと隣のケージのネズミに電流が流れるというもの。
するとどうなるか?
隣のネズミが電流に苦しむ姿を見て、やがて彼はボタンを押さなくなります。
そして、彼は飢え死にするまでボタンを押さなくなるのです。

 
このようにネズミ以上の哺乳類(と鳥類)では、
他者の感情が自身の感情につながるような現象が発現します。
 
もう一つ例を挙げましょう。
多くの犬が放し飼いになっている環境で、
よく犬同士の喧嘩が発生するそうです。
その時に負けた負け犬は、しょんぼりして群れから離れていくのですが、
その負け犬についていって彼を慰めようとする犬が、数匹現れます。
これは、負け犬の感情に「共感」した他の犬が、
その苦しい気持ちを解消するために、
苦しみの発生源となっているその犬を慰めに行っていると解釈される訳です。
 
飼い主が悲しんでいる時に、
飼い主を慰めに来る犬や猫の存在は、よく聞く話ではあります。
 
このように「共感」は美しい行動の元になっていることも多いのですが、
あくまで「共感」は「機能」です。
使い方によっては、醜いことになります。
 
典型的な例は、ニーチェの「ルサンチマン」に基づく「共感」でしょうか。
ルサンチマンの詳細は、過去ブログ「ルサンチマンに抱擁を」をどうぞ)
 
ルサンチマン」とは、乱暴に簡単な言い方をすると、自己憐憫のことです。
 
韓国や中国に反日感情を持つ人が一定数存在することは、
ルサンチマン」による「共感」が一つの要素となっていると、私は考えます。
この「共感」があるので、
深く考えず日本を悪者にできる感性が国民の中で共有される事態となっている訳です。
 
ルサンチマン」の「共感」は、何も韓国や中国に限った話でなく、
私たち日本人も普通にやっていることです。
例えば、私がある人との人間関係で憤って、誰かに愚痴を言ったとします。
果たして、その愚痴は自分の苦しさを癒すために言っているものでしょうか?
まあ、違いますね。
自分の「ルサンチマン」に「共感」してもらって、
敵対する相手の味方を減らして攻撃したいというエゴの現れでしかないのです。
 
だから、私は誰かに愚痴や相談をする時は、具体的な人名は言わないようにしています。
「自分は、こういったことで苦しんでいる」という自分の「心」の現象だけ伝えて、
相談に乗ってもらうのです。
 
お恥ずかしながら、そこに気づいたのはつい最近のことです。
 
自分がこんなに苦しいんだと「共感」してもらって、
自分の味方を増やそうという行為は、
「弱者」を装った完全な攻撃行為に他なりません。
非常に醜い「共感」です。
 
とは言え、「共感」があるからこそ私たちは生きていけるという側面があります。
社会的生物の私たちにとって、「共感」は「心」の栄養なのです。
人は孤独だと、「心」のどこかが飢えてきます。
チャウシェスクの落とし子の事例を見れば、それは明らかです。
子どもを工場のような無機的な環境で育てると、子どもの感情は発達しません。
(詳しくは、過去ブログ「理解者」をお読み下さい)
 
「共感」の影の部分を理解することで、「共感」の光の部分がより鮮明に見えてきます。
 
「仲間」や「友情」や「恋愛」は全て、「共感」が形を成したものです。
人々が、ラインやソーシャルメディアを使うのも「共感」を得るため。
この私のブログも「共感」を欲しいから描き続けている面があると感じます。
 
どうせ「共感」が必須栄養素なら、質のよい「共感」に身を投じたいものです。
そして、そういった質のよい「共感」にこそ、本当に人が集まってくるのだと想います。
 
一時期、愚痴のような記事を描いていたこともありましたが、
その愚かな点には気づきました。
質の高い「共感」を得るために、質の高い「文章」を描いていきたいと、
改めて願う次第です。
 
エゴや欲求に支配されない、高いポイントを狙って文章を描いていきたいと想います。