「心」の「味」

「やさしさ」を「考察」しているうちに、
気づいたことがあります。
 
「心」が他者の人格を感じるときの感じ方は、
いくつかの単純要素の複合になっているのではないかという予想です。
 
舌が感じる「味」をイメージしてもらえると、わかりやすいと思います。
肉やサラダ、ラーメン、パンと、食べ物によって千差万別の味がありますが、
しかしこれらの「味」は、
「甘さ」や「しょっぱさ」や「うま味」という単純要素に分解できる訳です。
 
味覚のウィキペディアを見ますと、

味覚(みかく)は、動物の五感の一つであり、
食する物質に応じて認識される感覚である。
生理学的には、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つが基本味に位置づけられる。
基本味の受容器はヒトの場合おもに舌にある。

とあります。
 
「心」が他者の人格を感じる際の感じ方も、
「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」のような単純要素に分解できると
考えた次第です。
 
それでは、どのような要素にわかれるのか?
今考えているのは、以下の2要素です。
・「やさしい」「やさしくない」
・「なめている」「なめていない」
 
この2つの基本味で、他者の人格を感じ取っていると考えています。
以下の図は、上記2要素を軸にしたポジショニングマップです。
 

 
人が他者の人格を感じ取るとき、
必ずその他者を、図のどこかにポジショニングして感じていると考えます。
 
例えば、①の象限「やさしい」「なめていない」。
この象限には、自分にとって最も好ましい人格の他者が入ります。
対等な関係で、お互いを気遣う、恋愛のような関係です。
 
次に②の象限「やさしくない」「なめていない」。
これは自分にとって、自分に興味がない人。
見下されたりはしませんが、お互い住む世界が違うようなイメージです。
 
③の象限「やさしい」「なめている」は、
例えば子どもから見た親のような関係です。
保護者は子どもに対してやさしいですが、
子どもよりも常に上位であると認識しています。
もちろん、いつか多くの子どもには反抗期が来ますが。
 
最後に④の象限「やさしくない」「なめている」。
この象限には、最も(自分にとって)好ましくない人格の他者が入ります。
要は、敵対している人物です。
敵対している人が「やさしくない」のは当然のことですが、
自分のことを「なめている」と感じていることも、
「心」をざわつかせる要素だと考えます。
 
このようなポジショニングマップを想定すると、
自分の周りの全ての人を、
どこかに位置づけできるのではないでしょうか?
 
「は?だから?」と感じる人もいるかもしれませんが、
複雑な人間関係を、このように単純要素に還元することで、
人間関係の問題を解決する糸口がようやく見えてくると感じます。
 
複雑なものを複雑なままで眺めていても、
絡まった糸をほどくことはできないのです。
 
「わかる」は漢字で「分かる」と書きますが、
物事を把握するためには、単純要素にどんどん分解していくことが大事。
ですから、上記のポジショニングマップの取り組みは、
人間関係による「ストレス」や「苦しみ」を解決する手法として効果があると考えます。
 
最も「ストレス」を与えてくる人達は、④の象限に位置する人達です。
この人達への感じ方を、②や③の方向に移動させることが、
根本的解決策になると考えます。
 
過去ブログ(「やさしさ」判定の「型」)で述べていますが、
他者を「やさしい」「やさしくない」と判断しているのは、単なる自分のエゴです。
基本、自分の欲求や要望を満たしてくれる人が「やさしい」のです。
これは、子どもの反応を見ていればわかりますね。
 
ですから、「やさしくない」から「やさしい」の方向にシフトさせることは、
自分の「心」のあり方を変化させれば可能なのです。
「なめている」「なめていない」も同様です。
 
「苦しみ」から逃れるため、
お金や権力やあらゆるパワー、エネルギーを使って外部環境を変えようとしても、
切りがありません。
自身の本体である「心」を分かり、「心」を動かす方が、
コストパフォーマンスがよいことは自明です。
 
「生命」は外部環境への適応のため、進化を繰り返してきました。
「外」を変えることと、「内」を変えること。
どちらがより「生命」の「本質」なのか?
 
私は外部をコントロールするパワーを得ようとするよりも、
自身の内部をコントロールする知恵を得ることの方が、
この世界に生まれた「生命」の本質だと想います。