「やさしさ」判定の「型」
以前ご紹介した書籍、
『「やさしい」って、どういうこと(アルボムッレ・スマナサーラ著)』(宝島社)は、
私にとって「見つけもの」の本です。
(過去ブログは、こちら)
この本によると、
「やさしさ」の判定基準は人それぞれ「型」があるそうです。
「この人はやさしい」「この人はやさしくない」
私達は、こういったことを瞬時に判断します。
この判断の基準は、ずばり「エゴ」です。
つまり、自分の要求や欲求を満たしてくれる人が、
その人にとっての「やさしい」人となります。
そして、その「やさしいか」「やさしくないか」を判断する基準は、
人それぞれ異なり、その人特有の「型」を形成するそうです。
結局、相手が自分の「型」に合うかどうかが重要となります。
例えば、DVに悩んでいる女性が、
『それでもあの人は「やさしい」』と言っている場合、
周囲の人は「どこが?」と不思議がりますが、
その女性にとって自分の「型」に合致するその相手は、紛れもなく「やさしい」のです。
その女性は自分の「型」が変容しない限り、
同じタイプの人を求め続けることになります。
結局DVの問題は、相手にはなく、自分の「型」にあると認識すべきです。
また、社会が自分の「型」に合わないと、
「こんな世界はイヤだ!」」と、引きこもりになります。
結局、引きこもりの人達が引きこもる原因は、
「(その人にとって)社会がやさしくないから」の一言に尽きるのです。
ですから、この自分の「型」を見つめ直すことが、引きこもり脱出の鍵になります。
そして重要なことは、この「型」はあくまで「エゴ」であるということ。
厳しい言い方になりますが、
DVに悩んでいる女性や引きこもりの人は、相手や社会に原因はありません。
そうではなく、自分の「エゴ」が苦しみを引き寄せていると認識すべきなのです。
「私は、相手にこう扱って欲しい」「この部分を満たして欲しい」
「社会は、こうあるべきだ」「こうでない社会はおかしい」
これは「エゴ」であり、そう思う感性があるなら、
いっそのことその人がそれを与える立場を目指す方がよいと、私は考えます。
そして、この「型」の恐ろしいところは、
「型」に合わない人達に対して、とても冷酷になれるところです。
自分の「型」に合わないだけで、
「あの人はやさしくない。ムカつく。」と躊躇せず相手を攻撃できます。
これは、「型」が「エゴ」であるということを、納得させてくれる証拠です。
自分や周囲の人を振り返って、思い当たることはありませんか?
また面白いのが、「型」が社会の群れを作るというこの書籍の洞察です。
この書籍では、暴力団を例に挙げています。
この書籍から一部引用しますと、
群れる仲間は型が似ています。
大学には勉強好きが集まりますし、
暴力団には暴力的な人しか入りません。
面白いことに、ヤクザはヤクザなりにやさしいのです。
世間と敵対しているぶん仲間意識が強くて、仲間のためならなんでもやります。
「群れる」ことは「引きこもる」ことですが、
同時に「群れ以外のすべての人間を排除する」ことでもあります。
私たちは、やさしさを求めて内向きに引きこもり、
外向きに排他的になってしまうのです。
「なるほど!」と思いません?
私はこの部分に感嘆し、今回の記事を描く動機になりました。
私は、周囲の人達とあまりつながれずに、ずっと悩んできた訳ですが、
それは自分の「型(エゴ)」に問題があるのだなと、
ようやく原因の本質に到達することができたようです。
原因が分かったところでやるべきことは、自分の「型」のチューニングになると思います。
「型」が形成された要因は、当然幼児の時代までさかのぼるでしょう。
自分は、何を「やさしい」と感じるのか?
自分は、何を「やさしくない」と感じるのか?
「優しさ」とは何か?私はずっと「考察」してきました。
実は、この「優しさ」という概念は、
人の「心」の最重要な鍵であることがわかってきた訳です。
「舌」が、「甘い」「甘くない」と判断することで、食べ物の栄養素を見極めていたように、
「心」は、「やさしい」「やさしくない」で、人や社会を見極めていたのです。
「やさしさ」とは、「心」の最大の関心事であり、「心」のあり方に直結します。
この自分の「心」にとっての「やさしさ」を見つめ直すことで、
私たちの「あり方」や「生き方」を苦しくない方向に変容させることができる訳です。
「生きる」のが苦しいそこのあなた!(私もそうです)
自分の「型」に着目してみませんか?
そしてもしご興味があれば、
今回ご紹介した『「やさしい」って、どういうこと?』を手にしてみて下さい。
本当の「やさしさ」とは何か?ってことも紹介されています。
原始仏教に基づいて描かれたこの書籍に、私は深く納得した次第です。