「感情」vs「理屈」

「感情」と「理屈」。
 
私の行動原理は、「感情」よりも「理屈」が優先します。
「感情」は薄いです。
今まで「理屈」を頼って、生きてきました。
  
「感情」が薄いので、
人との「つながり」が薄い「人生」です。
 
しかし「理屈」に頼って、よかったこともたくさんあります。
 
まずは自身の内面を見つめる「内観」が、おそらく他の人よりも得意であること。
「感情」という嵐に巻き込まれないので、
客観的に自分から離れて自分を観ることができます。
 
それから、物事の「本質」や「実体」を捉えやすいということ。
「理屈」「理屈」「理屈」でものを考えるため、日々訓練され、
「内観」と同様に、「本質」や「実体」にもピントが合いやすくなります。
 
また、「理屈」に頼った生き方には、
合理的なゴールを見据えやすいという「強み」も現れます。
このブログも、人生のゴールを合理的に見積もる「考察」の過程です。
 
私もそうですが、「感情」に支配されると、
他者や自分を傷つける不合理な行動を採りやすくなります。
 
誰かが傷つくのは、決まって「負の感情」によるものです。
「理屈」によって傷つくこともありますが、
そこには個人のエゴを越えた全体的な意味を持つ合理的な動機があるので、
「負の感情」に傷つけられるよりも「心」の傷は化膿しにくいと考えます。
 
「感情」に頼って生きるよりも、
「理屈」を頼り自身を「内省」して全体的な視野で「本質」を求めて生きる方が、
きっと傷つける人の数は少なく済むと想うのです。
普通の人の「人生」の楽しさは謳歌できなくても、
私は、自分と向き合って「人生」の「本質」を探求する研究職的な生き方を求めます。
 
そんな「本質」を進もうとする私の生き方は、他から見たら風変わりです。
それでも私は、この「道」を歩き続けたいと想います。
人の行かないこの「道」の先に、希少な宝が眠っている可能性があるからです。