「争い」

どうして、こうも人は争うのでしょうか。
そして、互いを傷つけようとするのでしょうか。
 
私は普段、「優しさ」とか、
人間のよい側面の「考察」を続けていますが、
人間の悪い側面の「考察」も行わないと、
人間というものを立体的に理解することができないと感じます。
 
「争い」とは、相手を意図的に傷つけようとする行為です。
「共感」から最も離れた行為と言えましょう。
 
「争い」の本能の歴史は、「共感」よりも古いです。
「共感」は、哺乳類や鳥類に現れた進化ですが、
「争い」は、もっとそれ以前、例えば魚類にも見られます。
鮎(あゆ)の友釣りで有名な鮎の成魚は縄張りを持ち、
縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加えるそうです。
(鮎のウィキペディアは、こちら
 
今回考察している「争い」は、同種間の争いのことです。
ですから、ライオンとシマウマのような捕食者と被捕食者の抗争は含みません。
また同種間の争いであっても、共食いは別です。
共食いは、互いの関係性が同種から捕食・被捕食の関係に変異してしまっています。
 
さて、同種間の「争い」が発生するためには、
自と他の区別がついていないと不可能です。
ですから単細胞の微生物のような高度に進化していない「生命」においては、
そもそも同種間の「争い」という概念自体が存在しないと考えます。
 
「争い」については、詳しくは動物行動学の書籍を調査したいです。
以前からブログでも頻繁に紹介している
リチャード・ドーキンス博士の「利己的遺伝子」の考えも重要でしょうし、
もう一つ「いわゆる悪-攻撃性の自然誌」という書籍を出版して注目を集めた
オーストリア生まれのコンラート・ローレンツ博士の考えも重要だと感じます。
 
エサを確保するための縄張りや、メスを巡って争うオス。
動物の世界で争いが起こる場合、そこには競合する「資源」があります。
 
生きるため(子孫を残すために)必要な「資源」に限りがあるため、
私たちは同種間で競争する必要があるのです。
 
私たち人間でも、それは同様だと考えます。
「金持ち喧嘩せず」と言いますが、
「資源」に余裕があればむやみに喧嘩することもないはずです。
しかし悲しいかな、私たちの持っているモノサシは相対的なモノサシなので、
金持ち同士でも、相対的にあいつよりも劣っていると感じたら、
そこに精神的な枯渇が生じ、争いを起こします。
大塚家具トップの親子間の争いは、記憶に新しいですね。
 
このように「考察」していくと、
「争い」を防ぐには、潤沢な「資源」が重要であることが想像できます。
ISISに参加する者が後を絶たないのは、
宗教というよりもやはり「貧困」の影響が大きいでしょう。
 
「資源」が豊かな国の若者は、わざわざリスキーなISISの活動に参加しないと思います。
それに、宗教への依存度も、そこまで大きくならないはずです。
 
しかし「争い」は、物理的「資源」の枯渇の他に、
精神的「余裕」の枯渇によって行われることが多々あります。
日本でも日々互いを傷つけ合う「争い」が続くのは、そのためだと考える次第です。
 
「争い」なんて百害あって一利なし。
「争い」の勝者は、「資源」を独占して「精神的余裕」を手に入れられるのでしょうが、
本当にそれで「魂」は満足するのか?
 
少なくとも、美醜で判断すれば、「美しく」はないでしょう。
例えば私たちは、争いの勝者が資源を独占するストーリーの映画に感動するとは思えません。
「心」が動くのは、そういった「本能」の罠に抗って、
他者の「幸せ」を願うようなストーリーに対してではないでしょうか?
 
今後、「共感」の対極にある「争い」について、「考察」を進めていきたいと思います。