「弁証法」で「人生の壁」を解消する

「人生」で「壁」にぶち当たること。
それは、人が生きていく上で、幾度となく体験すること。
 
私も今、「壁」にぶち当たっています。
 
さて、その「壁」は全て、外部との「対立」から生じるようです。
 
「壁」と表現すると生やさしいですが、
人との「対立」というものは、お互いに「感情」があるため、
もっと厳しい障害になるように思います。
モノである「壁」は、挑発してきませんからね。
 
「壁」になるくらいの「人」との「対立」では、
自分の目の前にボクサーがいて、
ファイティングポーズをとって立っているようなものです。
 
相手にぶちのめされるか、さもなくば相手をぶちのめすか。
 
まあ実際の物理的な喧嘩では、上記どちらかの結末になりますが、
実際の他者との心理的な「対立」においてはほとんど決着がつきません。
クリンチを続けながらも、「心」の中で延々と殴り合いを続ける訳です。
 
そう思いませんか?
「感情」というものは、「心」のバネです。
そうそう簡単に、「対立」する相手の「心」に屈服することを許してくれません。
 
コンピュータはプログラムを書き換えれば、すぐにその「存在」は変化しますが、
私達には、それを許さない「自我」や「魂」が存在する訳です。
外部からの改変に抗うファイアウォールを有しています。
 
ですので、私達が目の前の「対立」を解消するためにおいて、
「相手を屈服させるか」それとも「相手に屈服させられるのか」という、
「戦争」のような解決法は、現実的ではないのです。
それは、私にも相手にも、「心」の改変に強固に抗う「自我」や「魂」が存在するから。
 
それでは、我々の「自我」や「魂」は、外部の「魂」と「対立」してしまった時、
どのように、真に問題を解決してきたのか?
 
それに対する答えがヘーゲル弁証法だと、私は考えます。
(「ヘーゲル弁証法」において詳しくは、過去ブログをどうぞ)
 
弁証法」の考えに従えば、
「私」という確立した「個」がある時に、
「私」のそばにいる他者は、「私」との関係性において、
「私」の「陰」もしくは「陽」となるような関係性を有することになります。
 
この2つの相違した存在は、それぞれに独立した「個」です。
ゆえに、決して同一化することはありません。
 
同一化しないと言うことは、
「陰」と「陽」が「対立」した場合であっても、
相手をオセロの駒のように自分の色にひっくり返すことができないということです。
一瞬同化したように見えても、
ドレッシングの中の比重の異なる油のように、いつか必ず分離をします。
 
それでは、「陰」と「陽」で「対立」をした場合、どのような「解決」があるのか?
この答えが、「ヘーゲル弁証法」なのではないかと考えます。
 
詳しくは過去ブログを見て欲しいのですが、
ヘーゲル弁証法」においては、
「対立」する「テーゼ」と「アンチ・テーゼ」が生じたときに、
その「対立」のステージから少し高い視点の「変化・発展」を遂げることで、
問題は解決するとしています。
ここで得られた新たな視点が、実(み)という意味の「ジン・テーゼ」です。
 
個々の人間同士や社会の発展は、全てこの「弁証法」の流れで行われてきました。
例えば「民主主義」も、
集団でいることの安全性・生産性向上という「テーゼ」と、
個々人の自由尊重という「アンチ・テーゼ」との「対立」の結果生まれた
「ジン・テーゼ」です。
 
「テーゼ」と「アンチ・テーゼ」は、双方とも対等であり、
双方とも正しくも誤りでもありません。
ただ自分達が「対立」しているリングよりも上の視点が
必ず存在することに気づくこと。
延々と続くクリンチや殴り合いから抜け出すためには、そのことを理解し、
双方を統合する一つ上の視野を得ることが、「魂」の発展というものです。
 
現状よりも一つ上の視野を模索し、
なぜか自分達が闘いのリングの上にいることに気づくこと。
その見地を得ることで、今まで見えなかった「成長」への扉が開かれます。