よい「仕事」は、農耕に似ている

ここ数週間、「仕事」のことで悩んでいました。
 
そして考えたのです。
自分は何のために「仕事」をしているのか?
 
「お金」のためでは、ありませんでした。
しかし、他者からの「評価」のために「仕事」をしていることに気づきました。
 
今苦しいのは、「評価」のために「仕事」をしているからだ。
この状態から脱却しないと!
 
そしてまた、考えます。
 
「仕事」に対する考え方を、根本から変える必要がある・・・
 
「お金」のためでもなく「評価」のためでもなく、
何のために仕事をしたらよいのだろう?
 
「自分」のため?
いや、それは単なる思考放棄だ。
「お金」や「評価」だって、「自分」のためだ。
 
「その仕事で恩恵を受ける人」のため?
いや、それは結局「評価」と変わらない。
人の「感謝」を期待する不安定な「仕事」しかできない。
 
そうか! 「仕事」のために「仕事」をするんだ!!
 
「??」と感じるかもしれませんが、イメージは農業です。
農業の「仕事」というのは、おそらく会社の「仕事」とは異なります。
基本、上司や同僚がいない訳です。
向き合うのは、畑の農作物達。
農作物の収穫のために、水をやったり雑草を抜いたり、農作物に献身します。
農家の方々が有する「仕事」のベクトルは、
"怖い"上司に向けられるのでなく、
"敬愛する"大地と"愛しい"植物達に向けられる訳です。
 
1万年以上も前から、人類は「農耕」を続けています。
毎日起床したら畑の世話をする必要がある「農耕」は、
人類の「仕事」の原型と言ってよいでしょう。
 
1万年以上も「農耕」という「仕事」を続けてきた人類は、
おそらく遺伝子レベルで、この「仕事」と相性がよかったのだと思います。
 
しかし近年、「会社勤め」という今までとは異なるタイプの「仕事」が台頭し、
人類はストレスフルな時代に突入した訳です。
 
じゃあみんな農業をすればよいのか?と言うと、
もちろんそんな時代の流れに逆行することは、容易にはできません。
 
そうではなくて、「会社勤め」の中に「農耕」を見つけるのです。
 
先程の、「仕事」のために「仕事」をするという話。
これは「農耕」で言えば、
目の前のジャガイモやトマトのために「仕事」をするということです。
ジャガイモやトマトのために、愛情を込めて水をやり雑草を抜き、
そして「収穫」の時を喜ぶ。
この「仕事」に、「他者」は介在しません。
あるのは、「自分」と「仕事」だけ。
これが、「仕事」のために「仕事」をするということなのです。
 
そして「会社勤め」においても、
このような「仕事」の仕方は可能だと思われます。
人の「評価」でもなく、自分の「自己満足」のためでもなく、
目の前の「仕事」をある意味擬人化して、その「仕事」に誠心誠意尽くすのです。
そうして、その「仕事」が質のよい「実」を結んだとき、
「収穫」の喜びを素朴に感じます。
 
「自己満足」とは違うということに、注意して下さい。
イメージすればわかると思いますが、
丹精込めて育てたジャガイモを収穫するときの喜びは、
薄っぺらい「自己満足」ではなく、
もっと「心」の深いところから来る素朴な喜びなのです。
 
しかし素朴でありながらも、人類が1万年以上も感じてきた正当な喜びでもあります。
 
どうでしょうか?
 
何のために「仕事」をするのか?
この素朴で本質的な「喜び」のために「仕事」をすることが、
もっとも自然体でストレスフリーな「仕事」環境につながると考える次第です。
 
欧米風の、狩りで大きな獲物を持ち帰った者がヒーローという現代の会社文化に、
農耕民族である日本人の精神が、はたして馴染めるのか?
 
「仕事」自体に向き合い、「仕事」に愛情を込めて献身し、
「仕事」自体から収穫の喜びを個々が得るような、
「農耕」的な「仕事」の仕方が、日本人には合うような気がするのです。